成功哲学15
この頃、95%の人は成功しません。成功するのは5%の人です。というような、トンチンカンなこと、説を言う商売団体があるが、成功する5%の人になるように治療を受けろということなのだろうが、愚かである。
占い師も、悪いことを言う占い師が当たると言われる。人生に手放しで喜べる僥倖が少ないからである。多くは、苦難と苦労の連続である。
5%の成功者というのは、支配者階級のことであろう。それを言うなら3%である。
成功とは、他人から見た外側の姿ではなく、内面から湧き上がる生きる喜びのことを言う。それは、自己と自我の和解であり、意識と潜在意識の導通である。
マーフィーの法則というアメリカから来た考え方が、随分長いことフアンを獲得したが、あの元は、キリストの言葉である。思いは実現するというキリストの説教からきている。マーフィー自身が牧師であるから、当然であるが。
潜在意識の力は絶大であるが、元は自分自身なのである。その自分自身を、従えるという考え方で成り立つ。意識によって、潜在意識を従える。随分傲慢な方法である。
潜在意識を自分の薄い意識の欲望のために、利用するという手段である。それは、自分との和解にならない。
祈りということも、通俗的な欲望の道具に使うという、あきれた成功法である。
願望成就が成功ではない。成功とは、自分が何によって生きるのか、生かされるのかということを知ることである。
「叩けよ、さらば開かれん」と言うキリストも、潜在意識は「神の国とその義を行う」ためにあることを言った。天に宝を積むことであると。大いなる潜在意識との和解がなりより大切であるといことだ。
また、祈りは叶うという愚かな者が、今でも俄然多い。ここではっきりと言っておく。神に通ずる祈りというものは無い。祈りだと行為していることは、自己催眠である。
よく言っておく。神は与えて与える存在であり、すでに私たちは、全て与えられているのである。これ以上の何を求めると言うのか。冗談も程々にするといい。
もし祈りが叶ったというなら、それは心霊学から言うと、霊界のある段階の霊が作用していることである。それが良いか悪いは別問題である。祈りが叶って後に、大変な目に遭う人もいる。例えば、霊界には、人霊が、いい気になって、神のようになったと勘違いしている霊もある。また、動物の霊に合体して、動物化した霊もいて、その傲慢きわまりない想いから、人間の願いを聞き、何と、それを成就させる。そして、自分を拝ませる。霊界でなくとも、この世でも、少し頭の悪い人間が教祖となり、拝まれることを好む。それと同じである。
いずれこのことは、改めて書くことにする。
さて以前、潜在意識は、純粋素朴な意識であると言ったが、それはまた、無限に広がる大いなる意識でもある。人は、そういう意識を自分のうちに有しているという感激。
潜在意識は素直に意識であるから、意識するものを、素直に受け入れると言ったが、それが出来るということは、ありとあらゆる意識の排出するものを、受け入れる大きな器があるということでもある。
また、潜在意識は、気の遠くなるような長く深い記憶を有している。その情報を得るということは、自分を成長させるためには不可欠なものなのである。
私の言いたいことは、意識は潜在意識を従えるのではなく、実は、潜在意識に問いかける意識を持つことであると言う。それは、意識が考えるところの成功なるものは、私にとって必要なのであろうかと、尋ねられる大いなる私の意識なのである。
意識は自我であるが、潜在意識は自己であるという理由である。最も人生で大切なことは、その自我と自己との和解なのである。それを忘れた成功なるものは、単なる一時的な乾く水を飲む行為なのである。
先の95%の人は成功しないという理屈の意味は、単に、通俗的な成功を言う。話にならない。そして、脳が成功のポイントであるとする。心も脳の働きであるとする科学では、決して解らない。心が主で脳が従なのである。心の指令を受けて脳が働くが、心は見えないから、単に働く脳を心であると判断するしかないのが、科学である。
見えるものしか見ない科学の誤りがある。いや、科学というものは、そういうものであろう。マーフィーの法則なるものも、一見して合理的、科学的に見えるが、簡単に言えば、戯言である。そして支配者階級にいる人には、大衆が、それに酔っていることは都合が良い。
菅原道真の歌に「こころだに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん」とある。 潜在意識は、顕在意識が「誠」に生きれば、惜しみなく護るのであるということだ。
アメリカの成功法の戯言を学ばなくても、日本には「誠」を生きるという考え方が、当たり前にあった。「誠」とは何か。まこと、とは言霊では、「開いて送る」という意味になる。心を開いて、誠心誠意、やるべきことをやる。
意識と潜在意識が和解して、やるべきことをやる。行為することに、一点の曇りもない。淡々と行為すること自体が、成功なのであると言う。誠である。
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