木村天山  日々徒然 バックナンバー  No3 2004年 著

 日々徒然3

 私は26年程、着物を来て過ごしている。つまり、人は、私を着物を着た人と認識している。

 着る物が個性なら、着物は私の個性であり、私の着付けも個性である。

 私は着付けの家元も名乗っているから、着付けの作法も知っている。しかし、自身の着付けは、私のだけのものである。

 着物には、季節感というものを大切する習慣がある。しかし、私は、機能的であることが一番なので、それを無視することもある。つまり、私は、「着物を着ているのであり、着物に着られていない。着物は私のためにあるので、着物のために私があるのではない」もっと言うと、「私は作法のためにあるのではない。作法は私のためにあるのである」ということになる。

 簡単に言うと、私が着物の伝統を築いているということ。百年前の着物の作法を、継承するのではなく、時代に合わせた、私に合わせた着付けをしているということである。

 だから、私は普段着だと言われた紬の着物さえ、正装用に着る事もある。

 時に、着物を着ない者がである。私に忠告、私の着物に批判、非難をすることがある。何をか言わんやである。

 季節に合わない、男物ではない、着付けが乱れている等々。

 女物を着て、何が悪いのか。七割、私は女物を着ている。

 古びた知識を奉ずる形式主義には呆れる。

 着物の世界は崩壊したのである。織り元、卸、小売等々、着物に関係するところが激減しているという事実。

 着物の新しい扱い方を開発しなければ、益々、それは加速する。

 少なくても、着物はまだ、民族衣装である。民族衣装とは、全世界で通用するインターナショナルな衣装である。着物を着ていれば、それは日本人であるという証拠となる。

 私は何度も、海外でそれを経験した。

 再度言うが、主体は私であり着物ではない。私は着物の可能性を広げているはずだと思う。

 例えば、春に秋の柄の着物を着て何が悪いということになる。暑い日には、秋だろうが、夏物を着て、何が悪いということになる。

 もし、形式主義を残したいなら、どんどん着物を着て、形式主義を着ればいい。だが、誰もそんな人はいない。

 着ない人が着る人のことを言う、低俗ないちゃもんである。

 私は死ぬまで、着物を着る。私から伝統が始まるという気概を持って着る。

 ピンクやオレンジの着物を着て人の度肝を抜くが、そんなことは、序の口である。これから、黒留めも、振り袖も男仕立てにして着る。

 これが後に、着物復興の一因になれば幸いである。

 ちなみに、着物をもって成す、伝統文化の世界にて着物を着ている人に対しては、何の文句もない。そのまま形式主義を続けてゆくべきである。それも価値あることである。

 私には着物は付属なのであり、着物は私に着られる定めがあるという私の主義は、これからも変わらない。私が最も私でいられるのが、着物であるということである。

 主体は私である。