木村天山  日々徒然 バックナンバー  No1 2004年_月著

 

 日々徒然5

 待つことに耐えることが、人生である。

 待つという行為は、人間に出来る極めて心的レベルの高い精神的行為である。

 不運、不幸にある時、人は、どんな態度で臨むのか。それによって、その人の人生観が決まる。

 災難にある際に、どう対処するのか。一番の方法は、黙って過ぎ去るのを待つことである。地震、火事の際は、安全な場所に避難して、収まるのを待つしかない。

 人生の不運も不幸も、それに似ている。

 土砂降りの雨も、待てば収まる。それを待たずに進めば、水浸しになる。しかし、黙って待つことが出来ない程、不安を抱く人がいる。待つことの訓練を経なかった人である。

 悪いことは重なると言われる。それは、悪いことがあると、悪いことが起こるのではという心理状態が、悪いことを呼ぶのである。

 不運にある時、ろくなことを考えない。考えられない。そういう時は、何も考えないことである。考えても結果が出ない時は、考えずに、待っていることである。

 要するに、何か、マイナスイメージの状況に陥ると、それを、自分で暗示にしてしまう。不幸が続くのではないかという心理が、不幸が続くと、断定する。

 人にだまされる人は、人に騙されるという、光線を発している。それに気づくことだ。

 人生には、雨が降るというような、不可抗力の出来事も多い。そうなると、何故、わたしだけがという思いに憑かれる。そして、それに浸る。悪循環である。

 青天の霹靂で起こる問題を、吟味して、人生に生かす余裕を持つ。そのためには、待つという訓練が必要である。

 欲しいものをすぐに手に出来た人は、そういう逆境に弱い。

 私は多くの相談の場で、不幸に泣く人を見てきた。

 単純明快に欲しいものを手に出来ないから、不幸になっている。そして、その多くの悩みは、思索することを知らないがための、悩みであり、何をどう考えていいのか解らないという、稚拙な思考回路のせいである。

 誰も、彼を指導しなかった。要するに、先生がいないということである。知恵のある大人に会わなかった。会えなかった。

 そして、相談をすれば即座に解決の道が開けると勘違いするという、単純さである。

 悩みにある人は、悩みたいのであるとは、私の持論である。

 一つ越えれば、また一つの悩みが欲しくなる。そういうカラクリに気づいていない。

 不幸なことが続く人は、不幸を呼び集めていることを知らない。それが不幸である。

 人生には、どうしようもないことがある。その、どうしようもないことを、どう受け入れて、それを糧に生きてゆくかという、テーマが天から与えられてある。つまり、そこに、人生の秘密が隠されてある。

 それを抱いて生きる時に、生きるという意義が見えてくる。

 不幸であることが不幸なのではなく、不幸であるという、その問題を、理解出来ないのが、不幸である。

 世の中は、お金で解決出来ることが、九割である。それと同じように、思索で解決出来ることも九割ある。後の一割は、生まれてきたことの悟りである。生きる意味意識である。 すべての学問、芸術、芸能等々、生きる意味意識を問うためのものである。