木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然6

 情報過多だと言われる。しかし、情報が沢山あって、その中から選ぶということが自由ということである。つまり、多ければ多いほど、自由を享受出来るということである。逆に情報に振り回されると、自由を奪われる。

 私は横浜西区平沼という狭い地域で暮らしている。そのまま、何の情報も得なければ、狭いままの人生であり、刺激も少なく、安穏として暮らすことが出来る。しかし、私は外に出なければならない。すると、多くの情報を耳にし聞くことになる。

 そして、望めば、世界中の情報を得ることも出来る。

 つまり、私が主体なのである。

 出来る限りの情報を得て、私がそこから選び取るとき、私はこの時代の情報を、自由な立場から、主体的に取り入れるということである。

 情報が多いということを嘆く人がいるが、きっと、振り回されているのだろう。それは基本的な、物の見方、考え方を持っていないか、持てない人なのであろう。

 情報の扱い方で、人生を何倍にも生きられるという事実。

 随の情報が倭国に伝わるには、最低で三カ月、長い時で、一年、二年とかかった時代の人の寿命は短かった。しかし、今は、世界の情報が瞬時に伝わる。つまり、人は、あの時代から比べると、何倍もの人生を送ることが出来る。自然にこの文明の恩恵を受けている。 驚くべきことである。しかし、人に大差はないから、あの時代の人と、人としては、何の変わりもない。ここが、問題である。

 同じ人間でありながら、文明の恩恵を受けている私たちは、彼らよりも、充実して過ごせるはずである。しかし、そうでもないらしい。

 文明病と言われる精神的疾患にほとんどの人がかかっているという現実である。

 端的に言う。自然との関わりが少ないからである。

 極端に自然との関わりを持たないのである。文明は自然から遠ざかるということを、推し進めてきた。自然であるより、自然でない合理的、文化的な生活を求めてきた。今、それに気づくことである。

 では、自然の中に行けば解決するかと言えば、決してそうではない。すでに、自然の中に、文明を持ち込んで、それをよしとしているからである。

 狂いを矯正することが出来ないでいる。

 一つの例をあげる。アウトドアグッズである。私は仰天した。自然の中で楽しむのに、何故、ああまでして、普段の生活にある、いや、部屋にいるような用具を揃えるのか。そして、それをよしとして、人がグッズを買い物求める。空いた口が塞がらない。

 このように自然を享受し共感するという感覚まで、病んでいるのである。絶望的である。 もう後戻りは出来ないから、どうするのか。それに対して、誰も明確な答えを出せないでいる。

 唯一残っている身近にある自然が、人である。つまり、人との触れ合いである。それが病んでいるから、異常なセックスへと走らせる。都会では、少女売春が盛んである。自然回帰の狂った姿である。もう残っている自然が、人なのであるから。

 成人に達していれば、問題ないことである。自己回復のためのセックスは間違いではない。

 私は言う。健康志向の裏返しは、自然回帰なのである。自然の中で回復するはずの健康が消滅したから、自分の体に自然を求めて、健康志向なのである。

 サプリメントの華やかさは、今の時代の自然回帰である。

 昔の人は、死ぬ時は死ぬと言った。真っ当である。

 成人病恐怖症が蔓延して、サプリメントに幻想を抱き、安定剤のように人は飲む。

 栄養過多の日本人は、世界で飢えている人のことなど、どこ吹く風で、より栄養を取って、病気にならず、長生きして、そして、どこへ行こうとしているのであろうか。

 結局、死ぬのである。死ぬ時は、死ぬのである。

 そして、老いるのである。老いて見苦しくなり、生きることを見限ったら、絶食して、死ぬことである。

 それくらいの覚悟が無くて、どうするのか。

 この世界で、自分がどうしても必要な人間だと幻想を抱いているのだろうか。

 誰が死んでも、大河の一滴は、減りも増えもしない。

 さて、元に戻る。自然を失った私たちは、どうすればいいのか。

 ただで享受出来た自然を、取り戻すことは出来ない。文明は滅亡しない限り進化し続けるから、自然は益々遠のく。

 残るのは、人間の霊性である。しかし、人間の霊性を信じられない人は、これまた絶望である。

 すべては脳が司っているから、脳が死滅したら終わりであると思っている人は、絶望である。

 脳を働かせているのが、心であり、魂であると知らないと、解決しない。

 しかし、心も魂も脳にあると言うなら、これもまた絶望である。

 確かに、脳に心も魂も宿っている。だが、それ以上の働きが科学で証明出来ないから、

ないとは言えない。前頭葉に心が宿っているが、心の本体は胸にある。側頭葉に魂が宿っているが、魂の本体は、後頭部にある。

 さて、どうするか。私の言葉を信じるか否か。

 見えない世界のことは、信じるか否かにかかっている。

 だが、かろうじて、説明する。感動すると、心の本体がある胸、みぞおちの部分に、熱さを感じるであろう。胸が込み上げるという感覚を覚える。それを脳が感動して、その部位に刺激を送り、胸が熱くなると、学者は言うであろう。では、感動するという思いは、どこからくるのか。それは脳の記憶だと言うだろう。しかし、初めて見た物に感動するのは、どうしてか。初めて見た風景に、深く心を痛めたり、喜びを感ずるのは、どうしてか。 初めて会った人に、心を引かれることを説明出来ないのである、科学は。

 心理学では、幼児期からの記憶に、人の好き嫌いが記憶され、それが積み重なって、初対面の人に好悪の感情を抱くとあるが、出会った人と、深く縁することを、証明出来ない。 古代の人々の霊性が目覚めていたように、今、その感覚を取り戻すよい機会である。

 そのための文明なのである。

 どんどん進化して、人間が霊性の持つものであることを、再び甦らせることである。

 大いなる宇宙の意識と導通していることを自覚すべく、文明は進化すべきである。

 一人の人間が、すべの人の意識と導通していることを自覚すべきである。ユングがかろうじて、民族意識に通じている潜在意識に気づいた。が、気づいても、自覚しなければ、始まらない。自覚は体感するということである。ここに体の重要さがある。