木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然7

 バリ島に行き来している私の友人が、バリ島の土地を外国人が買うことが出来るようになったと言う。それで、バリ島の友人に、絶対に土地を売らないようにと、アドバイスしたと言う。

 つまり、お金に替えてしまうと、お金が無くなれば、それでおしなまいであるが、土地があれば、米でも豚でも飼って、食べるに困らないのだと。そして、日本人の二の舞いにならないようにと言ったと。

 すべてを金で換算する日本のようになっては、お仕舞いだということである。

 土地成り金という人々がいたが、今は見る影もない。大切な土地を売り渡し、金を得たのであるが、金は尽きる。一時、贅沢な暮らしをしていても、金が尽きれば、もう後戻り出来ない。金により、親子兄弟が離散して、不幸のどん底に堕ちたのである。

 金により、すべの生きる作法を失ってしまった。

 金より大切なものを伝えられなくなった大人たち。と言うより、金より大切なものが何かを忘れた大人たち。と言うより、金より大切なものが何かを知らない大人たちである。

 この日本のようにバリ島がなることを、友人は恐れている。

 ただでさえ、日本人の観光客がバリ島を訪れて、かれらを目茶苦茶にした経緯がある。素直なバリ人に、お金で混乱させた。観光客相手のバリ人に、お金の威力を見せつけて行動した。

「銭が敵の世の中だろと」という歌の歌詞があったが、「地獄の沙汰も金次第」ということわざもある。「金が無いのは首が無いのと同じ」とも言う。

 金金金の、世の中である。

 金を使うのは、貧乏人で、金持ちは金を使わないから、金持ちだと言う。

 キリストは、面白いことを言った。「金持ちが天国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と。二千年前も、金持ちがいた。そして、金持ちは、今に至るまで、変わっていないという事実である。

 所有した物を守るというのも、本能的なものだろうか。

 天国は与えるだけの世界だから、金持ちのように、所有することで、与えることを拒否してしまう人間は、天国に入られないと言うことなのであろう。

 しかし、金持ちが本当に与える人間ではないかと言えば、そうではない。金持ちにも与える人間はいるのである。

 金を求めることは悪いことではない。それで生きがいを得ている人もいるのである。業突張りに金を求めてもいいだろう。それで満足するなら、求めるべきである。

 一番悪いのは、貧乏人が金持ちを羨むことである。羨むということは、得たいが、得られなかった悲しみがある。その裏返しでの、羨みであるから、悪い。金持ちが貧乏人と会わないのは、その嫉妬がいやなのだろう。貧乏人の貧乏根性が一番悪い。

 この世は、得ることによって失う物もあるという世界である。すべてを得ることが出来ないようになっている。

 私は貧乏人だから、よく貧乏人の気持ちが解るが、金は天下の周り物と言えば、金は得られない。金は、留め置く物で、金持ちになる。

 私にとって、金は手段であって目的ではないから、貧乏人であることを、よしとする。 しかし、後世に残る偉人たちに、お金持ちがあまりに少ないことが不思議だ。