木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然8

 世の中は、非常に不合理なものである。

 私は、四年程、コンサートの企画、主催をしているので、そこから世の中を見る。

 どんなに質の良いコンサートでも、有名でないと、客入りが難しい。逆に質が悪くても、有名だと、客が入る。お客様は大衆だから、結局、大衆が愚かであることが、露見する。

 しかし、それでいい。世の中は、不平等で不合理であるから、それでいい。

 芸のない芸人がテレビに出て、年収、億単位を稼いでいる。それは彼に、与えられた運である。妬むべくものない。しかし、それを妬む大衆もいる。逆にそういう彼を支える大衆もいる。

 音楽プロデューサーである私は、音楽のプロではない。だから、先入観なく、また、余計な思惑なく、純粋に音楽を聴く。下手なピアノを聴くと、イライラするし、眠くなる。早く終われと思う。心に響くピアノだと、身を乗り出す。実に、単純明快である。

 では、心に響くピアノがプロのピアニストかと言うと、そうでもない。アマチュアでも、心に響く演奏をする。

 ここが問題である。アマチュアである私は、音を聴くのではなく、その演奏している人の波動を聴くのである。

 脳に響くのではない、心に響くのである。

 プロは、脳で反応するように、訓練しているから、音のみに集中する。つまり楽譜が頭にあるのだろう。しかし、私には楽譜はないただ、演奏する人自身の音楽や、その曲にある思い入れなどを、感じ取るのである。

 聴くということは、哲学するに値する。

 だから、私のコンサートはプロアマ問わない。心に響く演奏をする人を出演させる。それでいい。誰か一人でも、そういうコンサートをしなければ、文化的ではない。

 大衆は大衆心理というものに動かされる。多く人が集う所に安心感を覚える。コンサートもしかり。満席であるから、良いコンサートだと錯覚する。大衆の愚かさである。

 行列していると行列に与したくなる。人が集っていると、人が集う。そうして大衆は、頭の良い人に、コントロールされて今まできた。これからも、そうである。

 自分の価値の基準が一夜にして吹き飛びというのが、大衆である。

 つまり、価値があると思う幻想の内に生きている。

 成功するには、テレビに出るのが一番だから、テレビに出るために、何でもする、体でも使う人もいるというのが頷ける。

 運というものは、高尚なものではない。しかし、運をつけるために、どれ程の人が、愚かな行為をしているのか。

 私がいいたいことは、自分がしたいことを、淡々とするということである。だが、それさえも、教えられなければ解らないという不幸である。やるべきことをやっていて、それが、たまたま、テレビに取り上げられて、有名になることもある。しかし、有名になるために、行為しているのではなく、自分のためにしているので、それはどうでもいいことになる。

 死後認められたゴッホは、生きている間に一点のみ、絵が売れた。彼はただ描き続けた。自分の欲求通りに、自分に従って描き続けた。

 芸の質と、世の中の評価は、あまり関係ないのである。