木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然9

 祈りと言う行為を、宗教的行為と思っていないだろうか。

 語源を見る。示すに、斤であり、この斤は音符である。そして斤の意味は、願う。示すは、見せる知らせるという意味である。

 キリストは、祈りは、隠れている神に祈るのであるから、隠れて祈れという。

 祈りの原型は、神に願いを示すことである。

 単純明快に、神に願う。それでは、神を信じない人、神を否定する人は祈ることが出来ないということか。否である。

 祈りは、言葉を発しない黙想、瞑想と、言葉を発する祈祷がある。しかし、祈祷でも、深く瞑目する。

 黙想、瞑目、瞑想、つまり自分と対座することである。

 祈りの原型は、自然への畏敬から始まった。古代、人は、自然に対して無抵抗に従ったのである。自然を征服するという考え方は、産業革命と言われる時代からで、新しい。

 それ以前までは、自然崇拝が当然であった。自然の前には、手も足も出ない人の弱さを知っていた。

 まず、偉大なる太陽への思い。太陽は神であった。勿論、今もそれは変わらない。

 太陽の前で、人は喜び踊った。太陽があることが嬉しくて、歓喜した。太陽に包まれ守られていることを実感した。

 祈りの原型は歓喜である。

 そこに在って在ることが嬉しかった。

 それから祈りが進化する。祈りの言語化である。無事であるように、豊作であるように、災害がないように。そして、神に対する我を自覚した。皆で喜ぶだけではなく、自我の意識が、一人の祈りと進化する。

 祈りが、神を見て、自分と向き合う行為に進化する。先に宗教的と言ったが、実は、生きていることを実感し始めた人の、最初の精神的行為と言える。

 私が言いたいことは、祈りは宗教的行為ではなく、自我の目覚めの行為であるということ。自我と対座することを覚えた人は、それが他者へと向かう意識を覚えた。自我を意識して、他者を意識する。そして、その関わりに、神が介在して、神を通して、他者に向かう自我を発見した。原始宗教の発露である。

 心理学はこれを無視して、瑣末なことから、人の心理を覗くから、浅はかなのである。

 自然への畏敬の心からできあがった心と精神を無視して、つまり土台を無視して人の心を計っても解らない。

 自分が生まれて生きていることさえも、畏敬することなのである。人が我より先に、畏敬するものを意識したという、驚異である。そして、我に目覚めた。

 絶対的存在の太陽の前に、我がある。祈りの原型である。

 そして、我と共に生きている他者がいる。

 祈りというものが、我を自覚させる。今、その祈りを教える人がいない。

 繰り返し言う。我は、畏敬するものを通して他者に向かったのである。

 祈りに本来の姿を取り戻したいと思う。自我と対座する我である。私と対座する私。祈りは、生きていることの実感を伴い、我を深く味わう行為なのである。

 我を見つめる祈りの姿を求めることである。