木村天山  日々徒然 バックナンバー  No1 2004年_月著

 日々徒然10

 怒りというものは、純粋素朴な感情である。激高、激怒しやすい人がいるが、大半は、病気である。短気だから怒るというものでもない。

 怒るということも正しく怒るべきである。私は怒るべきことには徹底して怒る。それが人でも、社会的な事件、事故などでも、紛争やテロなどにも・・・

 特定の人に対する怒りに関しては、特に吟味して、怒ることにしている。人を怒るということは、念波が飛ぶからだ。怒りの念波は凄まじいものがある。

 何より、この怒りが正しいものなのかどうかの判断が重要である。

 人の場合は、その人の取った行動に対して、いろいろな角度から、冷静に見つめる。どう考えても、その人の単なる不合理な怒りであり、不当であると断じて、始めて、怒る。

 例えば、多くの人を混乱させるような行動などは、怒りの対象となる。また、自己防衛のために、何も問題のない人の批判をすることなど。

 怒りを中途半端にしていると、それは、怨念となる。怒りを溜めるということになるから、実に、良くない。

 何も、死んだ人ばかりが、怨念をもつのではなく、生きている人にも、怨念まみれの人もいる。つまり、怒っていないからだ。怒りを体に、心に溜めて、生きている。

 それは非常に危険なことである。何かの拍子に、突然それが現れることがある。また、怨念は、現象化する。それは相手のみか、自分に対しても、悪い現象を起こす。

 怨念は、生霊というものにもなる。

 我が儘、自分勝手、独断と偏見での病的な怒りでも、この怨念を生ずるから、困る。

 その場合は、相手のみか、自分もその想念に巻かれることになり、ともに苦しむ。また、怒りをぶつけた相手が、霊性の高い人ならば、逆に、その霊性が鏡となり、怒りの想念を返されて、ますます、怨念はひどくなり、自分を巻くのである。怒りを発した人が、ますます苦しくなるという仕組みである。

 自分の怒りの想念で、自分を巻いた人は、情緒不安定で、いつも神経過敏になり、安らぐことがない。しかし、それが、自分のせいだとは、気づかない。これが悲劇である。そして、次から次と、ささいな事に怒るという繰り返しをして、ついには、力つきて、人格破綻ということにもなりかねない。

 生きるということは、ひとつの修行である。自己を見つめ続けるという行為である。

 道元は、結局、人は人によってではなく、人を超越した仏によって、自己は自己たらしめると考えた。すなわち「仏道をならうとは、自己をならう也。自己をならうとは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」ということになる。

 自己を見つめるのに、一番の方法は、自己を忘れることであるという。自己を忘れて、無我になり、仏の意志の中に入ることである。

 大いなる者の目から見て、怒りを正しく怒る。

 個人的で狭量な思惑で怒るのではなく、大いなる者、例えば、仏の慈悲の目で見つめて怒る。神の愛の目で見つめて怒る。

 そうして、訓練させて、自己を高める。そのためには、学びが必要である。

 怒りによっても、人は成長するということである。そのために怒りのカラクリを知り、怒りを正しく認識して、そして、怒ることである。インドのカンジーは、怒りを徹底させて、無抵抗主義を貫いたのである。 (2004年執筆)