木村天山  日々徒然 バックナンバー  No1 2004年_月著

 

 日々徒然15

 朝、太陽を拝して、感謝する。心が広々となり、ありがたいと思う。

 古代の人、特に日本の古代の人は、太陽が神であることを知っていた。

 すべの宗教は太陽崇拝から始まった。当然である。太陽が神であるからだ。

 日本の神道、「かんながらのみち」唯神道は、宗教の大本である。何故なら、寛容だからである。他宗教は非寛容である。絶対的非寛容なのである。

 他を排斥して、成り立つ。同じ宗教でも、派閥によって対立する。

 本来の宗教の大本は、寛容である。つまり、すべてを包括するからだ。日本の歴史を眺めると、儒教、道教を受け入れ、仏教を受け入れて、咀嚼して、融合させた。排斥するのではなく、受容した。つまり、受容出来る器があった。

 それは元を正せば、日本に、そういう考えたがあったと言える。理解出来ないものを受け入れることは出来ない。

 唯一絶対神を信じている民族は、他の宗教を受け入れることが出来ない。つまり、器がない。

 この日本の精神の素晴らしさを、教育の中で教えない不幸である。

 江戸時代に、時計がヨーロッパから入ってきた時に、職人たちは、すぐに時計を作ることが出来た。真似をしたのではない。すでに、時計を作る技術を身につけていたのである。 一時期、日本は真似がするのがうまいと言われたが、真似をしても、その物より、優れた物を作るというのは、相当の技術があったからだ。

 話を戻すと、神棚があって、仏壇があっても、何もおかしいと思わない程、神道とは、寛容なものなのである。仏舎を祭れとは、天武天皇の頃からであるから、凄いことである。 唯一宗教の中で、寛容である神道を有する日本が、とんなに平和主義であるかということでもある。神道こそ、宗教の母である。

 ここで断っておくが、神社神道を言うのではない。私が言う神道とは、一宗教ではなく、日本民族の考え方、神道的とも言える考え方である。

 神社、神宮は、一つの形である。私が言うのは、太陽を御神体とした、自然にある神の技を言う神道である。八百万神は、自然の中で働く。自然の現象が神々の働きである。

 その働きに、神の名をつけて、敬った。

 太陽は天照大神の化身であり、宇宙の主宰者は、その身を隠した天之御中主神である。「中」みなか、とは、捕らわれない、自由で広々とした空間である。そこに充満する神の息吹である。つまり神は、非寛容ではなく、広大無辺な寛容であるということ。

 神道は、仏教でもキリスト教でも、イスラム教でも、ヒンズー教でも、包括する。その寛容性には驚くばかりである。

 それは、「中」つまり「中庸」だからである。中庸と言えば、ブッダの教えでもある。中国の思想でもある。裁かない、断定しない、拘らない。それぞれの特性を否定せず、それぞれを最大限に生かそうとする思想である。神道は、これに尽きる。

 私が言いたいことは、日本のこの思想を復古させることである。

 神道に異端はない。

 私はカトリックで、仏教徒であるが、神道つまり太陽神は、私を否定しない。また、これは、私自身の極めて個人的な信仰であるから、誰も、私を裁けない。

 私は日本人であるから、日本の精神につらなる者であり、聖書を読み、仏典を読み、神の愛と仏の慈悲を受け入れて、太陽を拝するのである。