木村天山  日々徒然 バックナンバー  No1 2004年_月著

 日々徒然19

 売春について書く。売春の元の意味は、神聖なものであると、私は認識している。

 その歴史を見れば、売春の発祥は、神聖なるものから始まったものである。これについては、いずれ機会のある時に書く。

 売春は一つの文化的行為であると、私は思っている。しかし、今の売春は、文化的行為でもなんでもない。単なる、ゲスな欲望の表現である。例えば、少女売春。年端もゆかない子供を性の対象にする。子供に異常にセックスを感じるという性向は理解するが、それを社会は容認しない。法律でも罪である。

 先日、中国の西安市で、日本人企業の200名程に及ぶ男が、集団で売春をした。これに驚いてはいられない。振り返れば、日本の男たちは、東南アジアの国々で、それを当たり前にしていた事実がある。貧しい国は、それで外貨を稼いだ。一時期の韓国もしかり。 フィリピンでは、父親が日本人の子供たちが、問題になっている程である。タイもしかり。東南アジアで、と言ったが、日本の男は、ロシアでもヨーロッパでも、集団売春をしている。

 売春は個人的、文化的行為だと思っている私には、集団ということに、戸惑う。

 江戸時代の遊郭文化を、ここで紹介したいほどだが、いずれの機会にする。

 成人に達した者が、体を売ろうが何をしようが、生活をするために働くというのは、労働と同じで、何の問題もない。体を売って生活して何が悪いということになる。

 売る方も、買う方も、納得して、売春行為を楽しめばいい。

 性は、人間の単純素朴な欲望であり、それが、生きる原動力であるから、それを、どう昇華するかに、その人間の生き方がある。性は完全なる自由であるから、完全なる自由を楽しむべきである。

 そしてそこには、その人の文化が反映される。不倫や浮気といった既婚者が、性を配偶者以外と楽しむ場合は、それなりのリスクが付く。フランスのように結婚してから、恋愛するという国柄もあるが。

 単に、性を謳歌したいのなら、独身で徹底的に、性を謳歌すればよい。しかし、家庭も持ち、奥さんも欲しい、そして、勝手に性も楽しみたいとは、あまりに身勝手なことなのかもしれない。ただ、それに関しても、個人により、差があるだろう。奥さんの公認の愛人を持つ人もいる。

 性は人間の根本的な欲望であり、人の本性が歴然と現れるものであるから、性にだらしのない人は、すべてにだらしがないということも事実である。

 性欲は、恋愛という言葉で覆われるが、恋愛と性は別物である。特に男の性は恋愛とは、全く関係なく存在する。それは、種族保存の本能的なものだろう。

 文化は、本能の制御の仕方にかかっている。その制御が粋の文化を生み出すこともある。江戸の遊郭は、正に粋の文化を作り上げた。性という単純素朴な欲望に、文化的な要素を絡めて、粋という文化を作った。

 セックスは単純に摩擦の快感であるから、それに始終しても、いつまでも終わることがない追求になる。性が深遠なものとなるには、哲学や宗教と関わらなければ、成るものではない。

 いまや、人間の性は、生殖の行為だけではなくなった。人間回復の道でもある。

 しかし今、子供たちは闇を知らないがために、成長が著しく、異性を好きになる前に性感を知る。これは、性感の対象が異性でなく、多様化することになると思う。それが進化なのか狂いなのかは、解らない。

 これからの性についての行く道は、予測がつかない。とすると、恋愛なるものも、結婚なるものも、価値の転換が計られる。新しい哲学が必要になる。

 さて、売春である。日本は戦国時代あたりまで、男も女も、食うために売春していた歴史を知っているか。歌舞伎を作った出雲のお国なども、体を売りつつ、芸を披露して、江戸を目指したのである。