木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然23

 人生、天から僥倖が降ってくることは、極めて稀なことである。

 ちなみに、私の場合は、一切の僥倖は無かった。すべて、自分で計画して、自分で実行して、その成果も何もかも、自分から発するものであった。それでは、僥倖の無いことを、不満に思うかと言えば、否である。私は、それを「よし」とする。

 何かで、優勝したこともなければ、賞に入ったこともない。公に表彰されたこともなければ、誉められたこともない。それでいい。

 そうして、人生を訓練させたから、天から何かを求めることもない。

 すべて、自分が行動して成ることであると、体で覚えた。だから、私は、私にしか、期待しないという、極めて素朴な人生観を持つ。

 そして私は、単純な日常生活を嫌うので、いつも行事が必要だった。要するに、自分のためのお祭りである。

 そのお祭りを実行するべく色々と準備する。勿論、準備は、辛いことも多いが、お祭りをすることの方が勝つので、せっせと準備をする。そして、お祭りである。お祭りは、準備の時間の長さに関わらず、あっと言う間に終わる。その繰り返しをして、今日まできた。 これからも、私はそうして生きる。

 人生は日々の積み重ねであるから、私の人生は、すべて、私が作ってゆく。当然といえば、当然なことをしている。

 ただ、私にしか期待しないという傲慢さがあるが、それは人に関係ないということではない。多くの人の縁により、私の行事も成り立っているのであるから、生きるということは、感謝の思い以外にないということである。

 結果的に、人生が自作自演になるという話をした。

 もっと言えば、人生は、私がなりたいように演じているということである。死ぬまで演じ続けられれば、幸いである。

 人に本当の姿というものはない。人は、融通無碍、自由自在、なりたいように成れる者なのである。意識して演ずるか否かである。

 馬鹿を演じてもいい。利口を演じてもいい。大切なことは、演じているということを、時々、思い出すことである。

 時に、不幸を演じたりすることがあるが、その不幸を演じることによって、人生を味わい深くしているということもある。

 パニック障害による鬱状態を経験した時、本当に具合が悪く、死ぬような思いをしたが、その時でさえ、これは私ではなく、演じているのだと思った。

 すぐに治療が必要だと、病院に行き、必要な薬を処方され、治療を続けた。

 どんな風に辛いかと言えば、朝、顔を洗っていると、死にたくなるのである。

 泣きたくなって、死にたくなる。これは、おかしいと思った。そうなる意味がないのである。何もかも灰色に見えて、人生絶望、本日破産するような気分に左右される。その時は、今より、貯金通帳にお金があったが、もう生きていかれないという、妄想である。

 死にたいということを、演じていた訳であるが、はた目には解らないが、私の心の中は、嵐のただ中である。

 脳内物質によって成る病であるが、まず、辛いものだった。

 鬱病を演じる機会に恵まれたというか、自発的には、望めないことであるから、それも感謝する。

 こうして、私は、演じ続けて生きる。それでいい。

 だから、何一つ、私の人生で私自身に適うものはないのである。私が主体なのである。病でさえ、私には、演じるという、理解なのである。

 今、楽しみなのは、死ぬ時をどう演じようかと思っている。自分の意志に反して、思うようにならないかもしれないが、それでも、私は、そうなることも、演じてみようと思っている。