日々徒然24
世の中には、四種類の人がいる。
ばかで、賢い人。ばかで、馬鹿な人。賢くて、馬鹿な人。賢くて、賢い人。
人を区分けするというのは、大変、傲慢なことである。ここに上げた四種類の人とは、時に応じて、人は、四種類の間を行き来するというこである。
あることでは、ばかで賢く対応しても、あることでは、ばかで、馬鹿に対応する。
人は、一概に断定出来ないのである。
その時々で、人は変化するのである。
あんな賢い人が、何故ということがあるであろう。
賢くて、馬鹿な判断をすることもある。
四種類の間を行き来しいて、生きているのである。要するに、自分が、今、どの段階にいるのかを知ることである。本当に賢い人は、演じるであろう。
演じることを意識する人は、この四種類を超えてゆく。
何事も、大切なことは何であるのかということだ。瞬時に、それを察する能力を持ち合わせているのか、否か。その時、自分の取るべき対処法を、持ち合わせていめるか、否か。 それは、教えられてある場合もある。教えられず、自然に学ぶこともある。
それは物事の理解度とも言える。この理解度が、賢さなのである。
人間関係の深さを理解することは、至難の業である。
立場や、年齢、その場の状況などと、人間関係のありようは、瞬時に変化する。
よく解らない時は、敬語を使うべきである。
年老いた英語の先生が言った。敬語とは、自分を守り、自分に有利になるように働きかける言葉の武器であると。
日本語の敬語に対する意識は、相手を重んじることから始まるが、英語の場合は、その逆だった。それもしかりである。
確かに、相手にものを頼む時に、やってくれ、と言うより、やってくださいませんか、と言う方が、うまくゆく。
相手を重んじる敬語でも、自分を守る敬語でも、どちらにせよ、有効に使うべきである。 人は、人によって、変化する。ある人には、良い人だが、ある人には、悪い人になることが多々ある。だから、人の噂は信じられない。
要するに、人は、私の写しなのである。そう考えれば、すべが、学びになる。人は私を写しているから、その人を見れば、私が解るのである。
あらゆる学問、宗教等々は、自分を知るためにある。自然科学さえ、自分を知るためにある。考古学さえ、自分を知るためにある。だから、学問とは、人間学なのである。学問を身につけると、人間が出来上がってゆくのが本当で、学者で人間的になっていないのは、学問が、何ら生かされていない証拠である。
芸術でさえ、人間性に頼るのである。
人間の姿を求めて、歴史がある。
男は、男の姿によって男となり、女は女の姿によって女になる。
これは色々な解釈が成り立つであろう。当然、百人百様の姿があるのだから。
私が言いたいことは、注意深く、物事を見つめる目である。「浅い川を深く渡る」如くに、生きることである。
限られた人生であるから、一日を味わい深く生きること。それに尽きる。そして、それが、人間教育、自己教育なのである。
人は死によって自己完結をする。死を飾るものは、生きたことの意義深さなのであるから、私を、どこまで大切に出来たかなのである。
最後に、ばかで賢くいたのか、賢くて馬鹿だったのか。はたまた、ばかで馬鹿だったのか。いやいや、賢くて、賢かったのか。
人生は生きるに値するものである。
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