木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然29

 礼儀作法が廃れて久しい。

 これは身分というものが無くなってしまったせいでもある。すると人は、身分?と、いぶかしがるであろう。何せ、平等主義、民主主義、主権在民なのであるから。だが、この考え方では、世の中が益々悪化してゆくことであろうと、心ある人は感じている

 主権在民に、ケチをつけるつもりはない。私も民であるから、民が主権の政治は、納得する。しかし、主権が民にあろうが、民は民であるつまり、下々の存在であること。

 昔、天皇の下に民がいて、陛下を奉ってよしとした。そこから身分なるものが出来て、秩序を保っていた。それも事実である。今、それを復活させよなどと言うつもりはない。ただ、身の程を知る人間になるべきだと思うのである。

 金を払ってお客だから、何でも通ると思うのは傲慢である。世の中の秩序を保ち、尚、客であることの権利を求めるのである。客であるマナーというものを、礼儀という。

 礼儀は自分の立場と、自分というものを冷静に判断して、自分が取るべき行動を冷静に判断するところから、始まる。

 今、すべての人に当てはまるような礼儀作法というものはない。皆、てんでに自己主張するのであるから、世の中が混乱する。

 相手の立場に立ち、相手を思いやるという礼儀の基本的教育がなされないのが、悲劇である。ただ、何でもかんでも、平等を教える教育の現場は、不毛である。

 徒競走で、一等を出さないようにするという、狂った平等主義の施行は、まさに、礼儀知らずになる。

 ある若者が、私に対して、20歳も離れているが、私と平等であり、対等に付き合うことが出来ると言った。まさに、平等主義の教えを受けているのである。しかし、私は、彼と対等に話す程、未熟でも、あんぽんたんでもない。

 どんでもないことを言うあんぽんたんである。彼は私の足元にも及ばないのである。かただか、女にモテ、セックス三昧の日々を過ごし、仕事がある程度出来て、私と、対等だとは、笑わせる。それが、平等主義の元に育った、あんぽんたんなのである。

 彼は、私の志しなど知るよしもなく、私が何をしているのかなど、思惑外なのである。ただ、人間が平等だと勘違いしている。

 はっきり言うが、人間は平等ではない。人間には、上等、中等、下等があり、その中でも、三種類に分けられる程、人間の格というものがあるのである。

 上等の上の人間は、社会、世の中のために、無私になり、淡々として世のため人のために活動している人である。勿論、お金持ちでもない。自分の職を通して、社会のために尽くしている人である。

 ほとんど、それらの人は、世の中に目立たない。上等とは、そんな人のことである。

 それを見抜けない世の中になってしまったのが、悲劇である。

 あるいは、自分にはない才能を持って、世の中に貢献している人なども、そうである。 新しい世界を創造することもなく、大樹の陰で、のうのうと生きてセックス三昧の日々を送っているような人間と、上等の人間は違うのである。それを理解して、礼儀作法が成り立つ。しかし今の時代は、何も見えない時代になったので、それを求めることは出来ない。では、どうしたらいいのか。その方法はない。

 だから、絶望しておいた方が身のためである。

 作法のない人とは距離をもって、なくべる触れることなくしているのが、賢い方法である。私は見えない身分を見抜けない人に対して、徹底して挑戦し、せめて、大層偉く振る舞う者ことを心掛けている。礼儀作法を知らない人には、傲慢不遜に接するしかない。