木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然30

 ある新興宗教の経典を見て、仰天した。

 そこには、世尊、観世音菩薩に対する祈りであり、最後に神道の祈りの言葉を使用して、神仏混合であり、付け合わせたような文句が並ぶのである。

 その新興宗教は、ある新興宗教から生まれ、その元は、明治後期の新興宗教から成る。その新興宗教からは、今も多く残る新興宗教が生まれている。

 確かに、様々な宗教を内包するような教義を作り、布教しようとする意欲は理解出来るが、目茶苦茶な祈りの文句に、絶句した。

 例えば、世尊と言えば、仏陀のことである。観世音菩薩は、世尊ではないが、一緒くたにしている。また、神道の神も登場して、混合体になっている。勿論、信教の自由の国なのであるから、何の問題もないが、通常の宗教の常識を持ってしても、仰天するのである。 日本に仏教が輸入されてから、仏を助ける神の働きという考え方も出て、本地垂迹という思想を作ったが、そこから、仏教と神道の混合の伝統が始まったので、それを受け継いでいるものなのかと思うが、よく解らない。

 これを私の心霊学、古神道研究からみると、魔界の波動を受けているとしか思えないのである。その宗教の大本の宗教もそうであるが、魔界からのものである。

 しかし、通常の人には、解らない。魔界であるか否かを知ることは出来ないだろう。

 心根の良い人が、魔界からの波動を受ける宗教に縁するのも、詮無いことなのかもしれない。きっと、縁するという縁があったのだろうと想像するしかない。

 魔界か、魔界ではないかは、簡単に解る。太陽の光りである。太陽の光を凝視出来ない宗教は魔界からのものである。

 通常、太陽の光は、網膜に悪いとされるが、それは科学が、そうであると言うだけであり、実際は、太陽の光は命の光であるから、凝視しても問題はない。一時間も見つめていろとは言わない、30秒程度でいいのであるから。

 魔界の波動を受けていると、30秒も見ていられないだろう、きっと。

 私は神なるものではないが、神を知る者である。

 教団なるものを作り、信者を獲得しようとする、その思いが、おかしいのである。

 古神道は、一切の布教活動をしない。する必要がない。それは、神がいるからである。信じようと信じまいと、神はいる。だから、信じないという人も受け入れる。それが、本当の宗教である。

 在るものは在るのであり、それを信じようが信じまいが、在るのである。だから、布教はしない。私が、神道を誠と思うのは、そういう訳である。

 神道は、信じる信じまいが、関係ない。在るものは在るというところから発する。私もそれでいいと思う。

 神道の神は太陽である。太陽は、ただ、光りを発して照らすのである。神は、人間の思惑に関係なく、在るから、在るのであり、それを信じるとか、信じないとか関係なのである。ただ、人は生きているだけでいい。太陽は、それを照らすだけである。神の存在も、その通りである。信じるとか、信じないとかの、人の思惑を超えているから、信じる必要はない。

 はっきりと言う。自己催眠、自己陶酔、自己暗示、それらが信仰心を作っていることの方が多い。

 もっとはっきり言えば、宗教というものは、大半が死ぬまでの暇つぶしの行為である・ そして、人生というのも、死ぬまでの暇つぶしの行為である。そういうことである。

 神は人の思惑にないものである。神は、神であり、人間ではないのである。