木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然 32

 「神は越えられない苦しみを与えない」と人は言う。特に、クリスチャンたちはよく口にする。しかし、それは嘘である。

 霊学研究の立場から言う。

 神が人間に苦しみや喜びなどを与えるものではない。仏も同じ。

 下々の人間にどうして神が、その人生に関与するというのであろうか。人類に大きな功績を残した人なら兎も角、一人間に神は関与しない。

 もし、神が関与して、幸運になったとしたら、それは神と言う名の、低級霊の仕業である。竜神や稲荷神の眷属に、低級な霊がいて、時々、人に障って、幸運にするようなことがある。特に、商売、金儲けなどである。一代で成功して、莫大なお金を儲けた人に見受けられる。私も、幾人かそういう人を知っている。

 高級霊、神界というところに座している神は、人間に手だししない。

 苦難、苦労は、自業自得だということを知っているからである。

 自分で撒いた種を神からの試練だと信じている、あんぽんたんが少なからずいるから、驚きである。

 カトリックの聖人の中には、神へと近づくために「私に苦難を与えてください」と祈った人もいるが、通常、一般の人は、そんなことは出来ない。

 私は、言う。神は人間のことに手出ししない存在である。

 ただ与える存在である。生きるに必要なものを与え続けている存在である。

 神が人生に介入するとは、自己催眠に似た祈りを、祈りだと勘違いしている人が陥る最大の危険な考え方である。

 自分が撒いた種なのであるから、自分が刈り取ることが出来るのは当たり前である。そんなことに、神を持ち出す、低レベルの信仰を持つ人がいる。

 もう一つ言っておくが、祈りが神に届くと勘違いしている人も大勢いる。どうして、迷い、自分の生きることに必死な人の祈りが、神に届くだろう。

 霊楽研究からみれば、祈りは、自分のすぐ近くにいる守護霊、背後霊が、それを判断して、その人の家系の守護神や、その人の所属する世界の守護神に、届けるのであり、それも、万に一つである。大半の祈りは、自分の心にまとわりつくようなものである。

 次元の高い世界から見ると、先を見通しているのであるから、その人の勝手な祈りを見抜いている。いちいち、守護神などに申請していられないのである。

 キリストも「神は、あなたがたの必要なものを知っておられる。だから、何を飲もうか、何を食べようかと心配するな。今日の苦労は、今日で足りる」と言う。

 祈るということは、自己観照なのである。つまり、自分自身を見つめる、観る行為なのである。そして、徹底的に自分を突き放して観る。私の内なる神の意識に、私をゆだねる行為なのである。ゆめゆめ、神に頼むような祈りというものはないのであることを、知るべきである。

 どうしても神に祈りたいのであるなら、私を神の道具にして下さいどんな苦難も、私の力で越えてみますという祈りになるのである。

 だが、本当にそんな祈りをすると、それはそれは大変なことになる。高い神霊の世界は、人間界の現実を無視して、徹底的に神の世界の物差しで求めるから、辛苦をなめるというような、生易しい苦難ではない。時に、生き地獄を見ることになる。

 自分のことで手一杯な人が、受け取れるような苦難ではない。

 再度言う。神や仏は人間に苦難など与えない。それは自業自得なのである。

 夢見るような信仰を持った人には、理解出来ない、峻厳な祈りの世界があるのである。また、次元を超えて立ち上る祈りを祈られる人は、神なのである。