木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然33

 O教の教祖が死刑判決を受けた。当然と言えば当然である。その妄想により、あまりにも多くの犠牲者を出した。そして、その事に対する反省の色はない。それも驚きである。

 もしや本人は、まだ妄想の中にいて、偉大な宗教家の迫害であり、苦難であり、まさに後に崇められる神であると考えていないか。

 彼の元に集った若者は、お勉強が出来た者も多かったと言う。お勉強が出来ても、教祖の詐欺を見抜けない。また、教義についての批判が出来ない程、宗教に対しての免疫力がなかった。ここから判断するに、これは、日本の国の問題である。

 つまり、伝統教育の退廃が原因であり、基本的知力の低下が問題である。

 一人の男の妄想に振り回されるという、その精神の脆弱さが問題である。

 教団の本を読むと、マンガである。修業して最終解脱者になる等々、教祖の血を100万で買い、それを飲むと超能力がつくだの。どうしてそんな嘘を、堂々となせたのか。マンガの世界だからである。マンガの世界にいると、楽である。何かに打ち込むことを見いだせない若者が集うという理由が、理解出来る。

 教育者、宗教家、政治家等々、大人と言われる者共の、姿勢が問われる事件である。マンガの世界と太刀打ち出来ない程、大人の世界も、脆弱になったのだ。

 宗教の発生は、いつの時代も、通常の常識を超えたところから始まった。既成の常識を覆す行動から始まった。O教も、それを真似た。真似ただけであり、内容はマンガである。 それに気づくことの出来ない、知力の衰えた若者、伝統を知らない若者である。

 さて、私が言うこところの伝統とは、歴史教育のことである基礎知力とは、自分で考えるという当たり前のことである。

 世界宗教となった教祖たちは、その基礎知力を弟子に求めた。曰く「自分に聴け」というメッセージを発していた。依存することが帰依するということではない。帰依とは、積極的参加のことである。教祖に依存して、自分をお任せするというのは、信仰に似ているが、信仰ではない。信仰は、自分が体験し、神や仏との合一を求める行為である。教祖は、単にその先輩であり、教師である。

 自分の心に聴くという行為を教えるのが、宗教的教師の役目である。

 子供は嘘と本当を見抜く力が与えられている。その子供の心の力を、大切に育てることが教師の努めである。しかるに、今は、子供のその力を削り取ることに教育の主となって、久しい。だから、お勉強の出来る子が、判断能力を失い、基礎知力を失い、他人の妄想に支配される。

 私は言う、受験のための歴史教育を続ける限り、この手の問題は解決出来ないということを。そして霊学の立場から言う。自分に依存させて、支配しようとする宗教家は、魔界に通じている。神なるものは、妄語を言わない。奇跡も基本的に起こさない。勿論、マンガのような世界を提示しない。神なるものは、日々の世界の何げないことに、気づきを求めて、そこに深い意味や意義を見いだすことを求める。

 O教だけではなく、特別な修行などを推奨する宗教は、神に遠い。ほとんど、魔界に接触している。本当の宗教的修行は、吐く息吸う息に意識をするような、何でもないことを教える。そして、静かに自己と語らう瞑想(反省)の時間を勧める。すべての答えが、神を有する自分の中にあるということを教える。

 奇抜なことをする者、即座に寄付を求める者、大言壮語する者は、間違いなく、魔界の者である。

 ちなみに、日本の心霊界には魔界がない、世界でも稀な国である。

 民族神を世界に向けて唱える宗教は、魔界と接触しているのである。民族神を世界的に唱える宗教は、危ない。