木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然 37

 「君が代」と国旗の問題に、まだゆれている馬鹿共がいる。

 一体何が問題と言うのか。国歌や国旗が何をしたというのか。国歌や国旗が、まさか、戦争を起こしたと言うのであろうか。国旗のために、多くの人命が失われたと感じる、神経過敏症的症状を愁う。

 瑣末のこじつけた理屈に、いつまで躍らされているのであろうか。

 世界に国旗や国歌のない国はない。通常の神経で考えると、国旗や国歌に体する過敏は病気ではないかと思える。人に氏名があるように、国にも国旗と国歌があるとどうして、考えられないのか。

 政府が、国旗掲揚、国歌斉唱をするようにと、お達しを出した。お達しを出さなければ、収集がつかない状況になっているのだ。愛国心を行為するなら、当然、国旗掲揚、国歌斉唱には、起立して敬意を払うものである。それが何故、出来ないのか。そんなに日本の国が嫌なら、他国に行くことである。

 国旗や国歌のない国はないから、どこへ行くのか知れないが・・・

 青年期特有の反抗というなら、まだ理解するが、それなりに年を重ねた大人が、一体何を拘り、偏屈になっているのか、私は理解出来ない。

 国というのは、その時の政治経済、等々の今のことだけでなく、国の歴史を包括したものである。国の歴史は、我が心の内なる歴史であり、国というものは、私と切っても切れない縁があるのである。

 今の時代、日本が嫌なら、いくらでも、他国に出ることが出来るのだから、心底、国旗や国歌に嫌悪するというなら、出るべきである。

 私は言う。国旗や国歌に敬意を称する行為は、正しい。また、教育の現場で、それを教えることは正しい。唯一、国に体する礼儀作法が、そこにある。

 国旗の制定の歴史的意味に、反感のある人は、それを新しい価値観に変えるといい。簡単なことである。自分が価値観を覚えず、偏屈な理屈を教えられたなら、それを、正せばいい。

 国歌が天皇に体する称賛と、天皇を称える歌であることが嫌なら、国歌の内容が、恋歌であるという、解釈を持てばいい。愛するあなたの時代が、いつまでも続くようにと願う歌であると。

 国旗掲揚、国歌斉唱で揉めることに、私は大変な不快感を覚える。

 私は、霊学を成すものだから、この世のことに捕らわれることがないから、国旗も国歌も、今生のことだと理解している。しかし、この国に縁したということは、深い意味のあることだと知っている。

 国という無形の集合意識に体して、私は敬意を払う者である。

 教師の中に、国歌、国旗を嫌う人が多いらしいが、そなら、国の未来を担う子供の教育は出来ない。何故なら、最低限の礼儀作法を教えられない。ならば、教師を辞めることである。誰も、あなたに教師になって下さいとお願いした訳ではない。生活の糧を得るために、教師をしているのであるから、職を変えるべきである。

 国の集合意識を侮っては大変なことになると言っておく。子供に愛国心を教えられない親も、覚悟した方がよい。国の集合意識は、先祖の霊の集合である。日本上空に広がる霊界の意識である。愛国心の無い人、それを拒む人は天にツバをする行為である。それは自分の身に降りかかってくる。これ以上言うことは控えるが、先祖霊の意識に対抗する行為は、死後に行くべき先を拒むという行為になり、霊界を放浪することになる。それは言葉で言えぬ程、恐ろしいことである。私は、真実を言っている。