木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然 45

 イラクは益々、泥沼化してきた。今度はイタリア人を人質にして、イタリア軍の撤退を要求している。

 最初の大義は大量破壊兵器を持つということから始まり、それが無いということから、アメリカ流の民主主義をイラクで行うために、軍隊を派遣したが、思い通りに進まない。より以上に、混乱してきた。

 他民族国家であるというのは、両者似ている。だが、宗教についてはアメリカはキリスト教である。イラクもイスラムであるが、このイスラムは、派閥がある。その派閥は、同じ宗教と思えないほどの、隔たりがある。それぞれ独立した宗教だと考えた方がよい。そして、長年に渡るアメリカ主導の支配に嫌悪するアラブである。

 イスラム原理主義、過激派等々の敵はアメリカである。そしてアメリカに加担する国も敵である。敵が明確であることは、活動しやすい。敵を想定することで、意気が上がる。 イラクは、フセインによって、かろうじて保たれていた。その支配の善し悪しではない。力で保つ形だ。それに替わるものをアメリカは民主主義を手本とすることを提示したが、受け入れられない。だが、今はアメリカが撤退すれば、イラクはテロ養成の最悪の国家になるだろう。行くも地獄、戻るも地獄を生み出してしまった。

 何故、イスラムをもっと徹底して分析しなかったのか。残念だ。

 600年代にマホメットが神の啓示を受けてイスラム教が始まった。それは戦いの宗教の幕開けである。中世のカトリックの異端に対する神経は異常なほどだ。その矛先がイスラムへ向かい、十字軍が出来る。それ以来のキリスト教とイスラム教の怨念である。

 だが、この二つの宗教は、ユダヤ教も含めて、旧約聖書の神なのである。マホメットはキリストも一人の予言者であると言い、キリスト教と対立する。ちなみに、ユダヤ教もイエスキリストを認めていない。

 今三つ巴の戦いの幕が開けた。イスラエルとパレスチナは、ユダヤとイスラムの戦い。そして、イスラムとキリスト教の戦い。戦い好きなイスラムには、生きがいであろう。

 砂漠を生きる宗教は、戦いを肯定する。生きることは戦いなのである。自然豊かな土地で生まれた仏教は、争うことなく生きられるのであった。平和主義を生きることが出来たのである。宗教が、その土地のものであることが解る。

 イスラムが支配するアラブは大なり小なり、戦いを好む。

 世界を支配するものは、政治経済である。だが、見落としてはならないのは、霊的波動である。政治経済から分析しても、解決し得ない問題がある。それが霊的波動である。

 私の霊学から言う。旧約聖書に語られる神とは、一人称ではない。複数の神々である。ここでは人間が想像した神学は無視する。唯一神ではないのだ。それを唯一神としているところに、問題がある。

 旧約聖書の神は、実は神でなく、進化した地球外の方々である。

 旧約聖書の神は、怒りの神である。試しの神である。従わなければ、罰を与える神々である。キリストは霊界の神から啓示を受けて、愛としての神を伝えた。当然、ユダヤ人から迫害される。仰天するような説教を繰り返したのである。敵を愛せだの敵のために祈れだの、戦いを好む神々に取っては、仰天する内容である。当然、あのような形で死ぬことになった。

 キリストは軌道修正を行うために、霊界の神からメッセージを受けたのだ。

 さて、ではこれから、イラク情勢はどうなのか。ベトナム化するだの云々と言われ始めたが、両者共倒れするまで、戦うであろうと、私は思う。この期に及んで最終戦争の形相である。1500年に渡る怨念の最終決算である。その根は、旧約の時代から始まっているのだが。同士討ちになる。

 神に選ばれたと言うユダヤ教の人々が、今持って、流浪している様を不思議だと思わないのか。私は不思議である。ユダヤの人々が云々ということではない。崇めている神が、何かを知らないのである。試し続ける神々である。

 宗教心とは、心の犯し難い情緒であるから、私は、それに関して批判する者ではない。だが、霊的感覚から観れば、軌道修正を試みたイエスキリストに加担する者である。

 愛の神を伝えたキリストの心を、キリスト教徒は、人間の想像した神学なるもので、曇らせた。仏教にも言えるが、後で、講釈を垂れて複雑奇怪にしてしまったのである。

 神は戦いを認めない。共生と感謝を求める。それでは神とは何者なのかと言えば、神とは、宇宙の法則と秩序(真中)であるから、宇宙に充満しているのである。