木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然47

 文化という言葉は、新しい言葉である。今では当たり前に使われているが、これは英語のカルチャーの訳語である。このカルチャーの意味は、武器を使用せずに、人民を支配するという意味であり、今使用されている文化という言葉の意味合いと、趣を異にする。

 日本には、今の文化に近い意味では、芸能という言葉がある。今も芸能は使われているが、文化という言葉の方が広い意味となり芸能も含まれる。言葉は時代と共に変化するものであるから、文化という言葉の意味も定義されてゆくということは否定しない。

 元の意味である、武器を使用せずに支配するということを前提にすれば、平和的解決を求めるということで、歓迎するものである。ただ、欧米の人が使うカルチャーイコール文化としては、大きくそのニュアンスが違うことを覚えておくべきだと思う。

 日本の芸能の元にある精神は風情である。

 私は評論家ではないから、誰の言葉云々という引用はしないが、日本の芸能の感覚は世界でも稀な情緒を持つ。

 風情を別な言葉で言えば、もののあわれということになる。この、物の哀れを、漢字にすると、また微妙にニュアンスが違うので、ひらがなで書く。

 日本人は言葉に神が宿るという考え方を持った言霊の思想がある。言葉そのものが、動くのである。言葉に発した時、事が動くとみた。それが、寡黙と沈黙の哲学となる。

 欧米の思想が輸入され始めると、馬鹿な者共が日本には思想が無いと言うようになる。そして、こともあろうか向こうの言葉と思想で日本を解釈することしきりで、真実の日本を見失った経緯がある。今、それを取り戻すことであると私は思っている。

 言葉は、未来の精神であるから、言葉をどのように扱うかで、その民族の性質が現れる。日本は言挙げせずという程(物言わぬという意味。言葉にすると事が動くからだ)言葉に対して稀にみる敏感な民族だから、それを、しっかりと得心することである。

 実は、もっと突き詰めてゆくと、言霊という前に音霊という、音の一つ一つに神が宿り、意味があるとする思想がある。これは日本にしかない思想である。いかに、言葉を大切にしていた民族であるかが、解る。

 芸能ということを、それを前提に考えなければならない。

 どの民族も、芸能は宗教と共にあった。つまり、神に捧げる芸能である。すべての発祥は神へのものである。それを、人が共有して成り立っていった経緯がある。神ではなく、人に向かって芸術という世界が生まれたが、元は、そういうことである。

 日本は、言挙げする前に、芸能で神に向かう民族である。余計なことを言わずに、芸能で神に向かう。つまり、祈る言葉の前に芸能がある。これは、画期的なことである。言葉による祈りを前提にする宗教と、大きく異なる。

 言葉は、行動とイコールであるから、言葉にすることは、成ることなのである。

 例えば、「あ」と発声しただけで、事が開く、明けるという意味を持ち、そう成るのである。単語に意味がある他民族と、ここが違う。言霊は、他の国にも認められるが、音霊は日本にしかない。これにはもっと深い意味があるが、ここでは言わない。

 芸能の元は風情であるといった。風情には、臨機応変と、型があって無いという、無定形さがある。風に心があると観た日本人の感性は、見事なほどに自然と共生する。自然と対峙する欧米の思想を持っては、解釈出来ないのである。それは、比較した時に、驚愕するほどの違和感を覚えるはずであるが、欧米の思想に洗脳された学者たちは、気づかないままで死んだ。気の毒である。

 だが、600年代の推古天皇の頃から、日本は間違いを犯してきた。それ以前にあった文字を廃止して、中国の漢字を取り入れて、言葉を作るという作業に取り組んだ。厩戸皇子である。平安期に、ひらがなが生まれたというのは、嘘である。あれは、元からあったものである。結局、日本人の微妙な精神と心を表現するのに、不可欠だったのである。漢字から万葉仮名、変体仮名、仮名が生まれ、ひらがなが発生したと言われるが、私は、ひらがなは、元からあったと言う。神代文字として扱われていた。隠された文字である。

 文化という言葉に新しい息吹をと思い、とりあえず、紹介した。