木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 日々徒然51

 コンサートプロデューサーをしている。企画、立案、舞台の手配等、コンサート当日までの雑務が多い。そして、本番である。その前に、リハーサルがある。リハーサルを見ていると、私の中では、コンサートは終わっている。

 本番は、見事に終わる。見事というのは、あっと言う間に終わるということだ。

 舞台を演じた出演者を見て安堵する。

 そして次の企画である。終わりは次の始まりである。

 人生を考える時、舞台のことを思う。人生という舞台である。

 私が予想するに、生まれる前に、どれほどの準備が必要だったか。そして練習である。舞台で演じるために、練習は延々と続く。しかし、どこかで、その練習もケリをつけなければならない。泣いても笑っても、本番がくる。

 人生は、舞台である。そこで、どう演じるのか。演じている間は、没頭している。

 人生は演じきることである。

 そして本番は終わる。死である。終わりは始まりである。死は、また始まりである。

 舞台が終わって後片付けをしていると、葬儀をしているような気分になる。手際よく後片付けをしていると、喪に服しているような気分になる。

 先程の舞台は、何事もなく元の舞台に戻る。まさに、舞台は人生を象徴している。

 私は、人生をどう演じるかを、余程練習してきたはずである。そして、その練習に添って、本番である人生を演じて生きる。息を引き取るまで演じ続けるのである。

 舞台は、出来不出来に関わらず、完成したものである。ただ、舞台芸術に終わりがないように、人生にも終わりがない。

 つまり転生輪廻である。

 次元の違う世界である輪廻を説明することは、至難の業である。が、確実に人は、輪廻する。仏教では、この輪廻から抜け出ることを、悟りと言う。

 輪廻を生きることも、悟ることも、すべて私が決めてきた。

 もっと演じてみたいと、生まれてきた。私は、そう考える。

 人生をどうとらえるかで、哲学があり、思想がある。そして宗教があり、あらゆる学問がある。歴史とは人生のとらえ方である。歴史を我が内なるものととらえる時、歴史が人生となる。答えが明確に出る数学でさえ、事の起こりは人生のとらえ方である。

 生き方は無限である。魂が完全自由なように、人生の生き方も無限である。その無限を舞台に上げて演じるという、粋さである。自由自在であるが、ひとつの形を演ずるという妙味である。

 「地図があっても迷う」ということわざがある。迷った振りをして生きるということを、私は粋であると感ずる者である。

 演じるということは、ひとつの迷いを演ずるとうことである。迷いを芸と言ってもよい。迷いには、終わりがない。つまり芸には、終わりがない。人は終わりのないものに憧れるのである。それは、魂に終わりがないからである。