木村天山  日々徒然 バックナンバー  

 

 日々徒然60

 日本は明治維新以後、多くをヨーロッパから学んだ。そして戦後はアメリカから学んで、見事に経済大国第二位になった。

 他国に学んだこと良いことだった。だが、その辺りから、他国が良くて、自国は悪いというイメージを持ち始めた。戦後は特に、日本には学ぶべきものがないと信じる人々が多くなった。明治維新から、自国を卑下してきたのである。

 それが顕著に教育の現場に表れた。日本に学ぶべきものはない。哲学思想も、半島を通して、中国の文化を受け入れて成り立った。ヨーロッパの思想を持ってきて、よくやく世界の一人前になったと、多くの人は思った。大から小までである。

 日本人は猿まねが上手で、他国の物を即座に真似して、それ以上に良い物を作る云々。私の子供のころは、そういう考え方をする人が大勢だった。

 大勢で言えば、そう思うのが大衆である。欧米人にコンプレックスを持ち、その反面、アジアの国の人々には、差別を持って振る舞った。

 中には、目覚めていた人もいるであろうが、そういう人の声は、かき消された

 他国の物を取り入れて、それ以上の物を作るとしたら、それ以上の技術を有していたと考えられない愚かさがあった。

 江戸時代に、時計を真似て即座に作った。ということは、時計を作る技術を有していたのである。ただ、必要に迫られないから、作らなかった。それはすべてに言える。

 ギリシャ神話に重きを置くが、古事記には重きを置かないという、不思議な風潮が主流を占めた。大から小までと言ったが、学者、研究家が率先して、日本の伝統を嫌った。それに価値の無いものであると断定した。何から何まで、日本は他国から取り入れて、自国のものは無いとまで、考えた。

 それは潜在的に今も続いている。

 何処の国が良いという言葉を、多くの人が使う。それなら、その国に移住すれば良いと思うが、移住するわけでもない。日本を卑下して、平気で日本に住んでいるという図である。愛国心が育つ訳がない。

 日本が、どれほど優れているかは、奈良飛鳥時代以前からの歌を集めた万葉集を見ればよい。世界で最初の小説、源氏物語を見ればよい。残っている物が少ないから、証拠がないから、優れていないとは言えない。古事記から、有史以来の歴史を察することが出来る。 ギリシャ神話のドタバタ劇など、吹き飛ぶ物語の世界がある。

 すべてが、他国から流れてきたという固定観念を持って歴史を見るから、まっとうな日本の歴史を見る事なく、民族までも、流れてきたと平気で言う。

 私の子供ころは、騎馬民族が天孫族であるとする説が横行して、皆、それを信じていた。今もって、そう信じている者もいる。学説としては、否定されても、信じてしまったのである。大和民族と言ったって、所詮、大陸から流れてきたものではないかと。

 少し賢ければ、書かれた物があるということは、書かれない物もあるということに気づくはずであるが、書かれない物は無いと断定する愚かさである。それを証拠がないと言って知る努力を怠る。それが学者であった。とんちんかんな学説でも、大学の名の権威を持って、正しいと思い込む。思い込ませる。

 ほんの少し賢かったら、そんなことにはならなかった。欧米の哲学思想には、心血注ぐが、日本の伝統には、目もくれないという愚かさである。日本語の母音を見ても、世界の言葉の発祥があるということが解るのたが、そんな洞察力もない。

 私は、貧乏な市民であるが、それを霊感によって知ることが出来た。と、そう言うと、霊感なるものは、妄想であるから、云々と退ける人がいる。勿論、妄想の霊感者は大勢いて、商売をしている。だが、真実の霊感もある。古事記を読んでも、書かれなかった事実を魂の眼で観るのである。書かれたことは、書かれなかったことの一部であるということは、少しの賢さがあれば解るものである。見えるものは、見えないものによって、支えられていると理解出来れば、救いがある。書かれたものから、書かれなかったものを観るのは、洞察力と霊感である。

 霊感を信じないという人には、結局解ることはない。この世の発見、発明は、すべて霊感によって成ったということを知らない不幸である。霊感の別名は、謙虚なる知恵の発露である。感じることを深めた状態を霊感という。文章の行間を読むというのも、霊感のなせる技である。また、日本では、霊感をもののあわれと言った。もののあわれを知る時、霊感が発露するのである。