木村天山  日々徒然 バックナンバー  

  日々徒然66

 聞く耳のある者は、聞くがいいとは、キリストの言葉である。

 聞く耳のある者とは、誰か。それは求める者である。何かを知りたいと思う者である。

 キリスト教系の新興宗教の信者が、布教のために、回って来ることがある。「聖書について興味がありますか」「聖書についての冊子を配っています」昔は「あなたのお話しを聞きますから、私の話も聞いて下さい」というのもあった。

 彼らは聞く耳のあるものを探しているのであろう。だが、それは大きな誤りであることを知らない。

 布教という行為にある痛みを知らない。

 教えを広めるということを、語り尽くすことだと勘違いしているのである。それは、布教する者の多くが陥る、誤った正義である。信者である者が、何を語れるというのか。自分の信仰の不確かさ、不完全さを確認するために、布教をしているのか。布教という名で、自分に語りかけ、自分の信仰のためにしている程度である。それほどの信仰があるなら、行為によって、語るべきなのである。

 聞く耳のある者とは、聞く耳を今持ち、聞くという行為を促すのである。聞く者になれと言うのである。それはキリストだから言えたことである。

 自分が信じている、または信じていると勘違いしている信仰を人に説くという行為は、実は、自分に語りかけている行為なのである。それを布教と言う。全く布教の意味が違う。 信仰の深さが布教であるというのは、宗教団体の幹部の策略である。自分の信仰に、疑問を持つ時間を削る、減らす、果ては、考えさせない。迷いを起こさせないためにする。

 生命保険の勧誘のように行わせる。

 何事かを説くというのは、求められて成す行為である。だが、仏陀もキリストも、知らぬ者を促した。彼らも又、布教したのである。

 この教えを広く広めるという思いは、どこからのものであろう。

 知らぬ者を知る者にする。愚かな者を賢い者にする。それは強制を伴う。

 孔子は農民に、耕すこともせず、無益な話をしているばかりであると批判された。農民の目から見れば、何も生産的なことをせず、無益な議論ばかりしていると思われた。さて、それは、どちらが正しいか。どちらも正しい。

 人には役目がある。それを淡々として成すのみである。農民は忘れ去られ、孔子は、今も名が残る。だから農民が愚かかというと、そんな訳は無い。ただ、役割のせいである。

 では、元に戻る。布教するというのも役割なのであり、それ以外の者が布教するのは、僭越行為になる。

 身の程を知る。そういうことである。

 アメリカから来るキリスト教新興宗教の若者は、それが一つの体験として教団から強制される。その布教行為によって、人間的成長を促すのであろう。

 宗教団体は、基本的に世界制覇を目指す。皆、その宗教の信者になることしが、願いである。色々な神や仏があることを嫌う。これが唯一であると信じ込みたいのである。違うものを認めないという基本姿勢がある。これは実は、魔界のものである。

 神道が布教をしないのは、魔界ではなく、正しい神の道だからである。畏敬の心に神道は応える。お願い祈祷を神社神道はするが、古神道は、それも無し。ただひたすら、言霊、音霊による祝詞を上げて、善しとする。宗教の姿がそこにある。