みたび日々徒然 104

木村天山   

 

 9月10日(05年)英国北アイルランドのプロテスタント系住民が暴動を起こした。子供を含む700人が、警察官に発砲したり、奪った車に火を放ち、街は騒然としている。 小さな記事である。しかし、これはテロ行為に結び付くものであり、重大な宗教対立の様を思わせる。

 あらゆる宗教には信じる自由が保証されていると、私は考える。そこで、信仰するということの本質を知らないでの信仰は、信仰にあらずということを言う。

 教えに凝り固まることが信仰ではない。それは単に教えに凝っているだけのことであり、信仰とは無縁と言える。

 信じるという行為は、疑うという行為と裏表にある。

 宗教家は、また信ずることを言う。絶対命令として言う。キリストでさえ、「信じない者ではなく、信じる者になれ」と復活後に弟子のトマスに言う。

 そして信じた者は、それのみで勝ったと妄想する。

 ひとつの宗教に身を投じた時に起こる心的現象は、宗教的行為に遠い、排他的、非寛容に陥る。そして、最も大切な疑うという、本質を忘れる。

 盲滅法(めくらめっぽう)に信じることがいかに危険なことであるかは、Oという日本の新興宗教の様を観れば解る。

 洗脳されるというが、疑いのあるところに洗脳は無い。もし洗脳というならば、人生は、あらゆる面で洗脳されるという自体に気づくであろう。例えば義務教育は、国家の洗脳の最もたるものである。それは、日本に生きるために便宜上、折り合いを付けて生きるという余裕があって始めて成り立つ。

 戦後の日本は金に洗脳され、今なお洗脳され続けている。

 「何事かおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙流れる」と西行は伊勢神宮を参拝して歌う。それは地場のエネルギーを感じて、かたじけなく感じた感性であろう。しかし、それは信じることではない。感じることである。

 どう考えても、理屈なく、感性が満たされる。そういう心境は重大である。しかしそれは、単なる教えに凝った状態とは違う。

 復活したキリストの脇腹に手を入れて、トマスは信じた。それでいい。それでも信じない人もいる。キリストの幽体に対しての疑いが晴れた。主は殺されたが、死んではいない。 これは奇跡である。奇跡を起こさなければ成らないキリストの悲しみはいかばかりか。 奇跡は、魔界の魔物のやることである。それをあえてやるという悲しみ。

 そこまでしても、伝えたいものがあったのである。

 疑いの無いところに信じるという行為はない。

 「信仰の薄い者たちよ」と嘆いたキリストの真意は何か。それは疑うことも知らないアホ振りに対する怒りである。

 存在の根源を揺すぶる程の疑いを持って始めて、信仰というものが成り立つのである。信じる者は、騙されるのである。だから、疑えと言う。それが信仰の薄い証拠なのである。 多くは単細胞的に信じるということを善しとする。それは魔界のものである。

 我の存在の不確かさをも招くであろう疑いをもってして始めて、宗教に触れる。

 神や仏という存在は、妄想になりかねないのである。

 つまり、私を忘れたところの信仰は、ウソであるということである。もっと言えば、神や仏は、人の数だけ存在する。それが真実である。

 皆同じ神や仏を拝むという事態は、異常事態である。

 天上天下唯我独尊とは、仏陀のことではない。人は皆、唯我独尊である。しかし、その孤独に耐えられないがために、宗教という名の下で支配されたいと望む。魔界の思う壷である。

 「信仰の薄い者たち」と嘆いたキリストは、人は孤独に耐えられない者であることを知り抜いていた。一人で立て。それが信仰である。

 教祖の元に集うことが宗教的行為ではない。人は独りで完成するものなのであることを言う。それが、教祖の教祖たる所以である。しかるに、信者を集わせ、組織を創る、そこに宗教は無い。

 独りで成ることの厳然とした宇宙の掟を知る者が、教祖たる所以であり、それ以外は、教祖足り得ない。

 私が、キリスト教の祈りも、仏教の読経も、多々ある宗教の祈りを行為するが、それは方便であり、私が立ち返るところは古神道にある。教祖も教義もない、原型に立ち返る。 何故、私が多くの宗教の祈りをするかは、死後の霊体は、生前の宗教形態を維持していることが多く、その方法で、通じるからである。

 実際、霊界には宗教は無い。あるのは、魂の状態である。幽体、霊体を超えて、魂の存在になることが、正しい。魂の別名は、神であり仏である。

 次元の違う話は、この世の言葉で語ると、多くの誤解が生じるので、多くを語らないことにする。

 私は霊能力者ではない。ただ、感じる者である。「感じるものを無視することなかれ」である。

 天地自然と和合すれば、感じることの真実が解る。霊的能力は、魔界ものであることを言う。つまりそれは、霊界のある分野の霊体と導通して起こしていることであり、その分野も次元があるということである。神や仏は霊媒にかからないのである。というより、神や仏は、私であるから、他に求めることはないのである。他に求める神や仏は妄想である。 霊媒にかかる霊は、次元の低い人霊である。

 想念は言葉に出来ない。言葉にするとウソになる。宇宙の波動は、想念である。エネルギーであるから、言葉に出来ない。教えというものは無い。

 教義、経典すべては、人間が創り出したものである。神や仏イコール宇宙のエネルギーは、そんなものを創らない。

 私は宗教を否定する者ではない。よくよく吟味し、それによって、我という意識を得る、得られるならば、宗教に身を置いても善し。

 宗教組織の起こす行動を見て、私は、いかにこの世の宗教が誤りであるかを言った。

 最も崇高であり最も下劣であるもの、それがこの世の宗教であろう。

 天上天下唯我独尊という、究極の孤独に絶えて始めて宗教の大元が解る。人は独りで完成するものである。神は一柱である。つまり、単独である。

 ゆめゆめ迷うことなかれ。信じる者は騙される。最も妄想を嫌う宗教が、妄想の極みに陥っていることを私は言う。

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