みたび日々徒然 110
木村天山
巨大新興宗教の新聞を、ここ三年程読み続けている。
仏法と銘打っての戦いを行う。敵を、悪をことごとく打ち砕いて、仏法が成ると信じているようである。
「汝の敵を愛せよ」とはキリストの言葉であるが、キリストでも敵を想定した。あの時代の民族の有り様を鑑みれば、それも理解できるが、不思議なことは、宗教は敵を明確に意識するのである。
ただし、仏陀のみは、敵を明確にしなかった。つまり相手が仏陀を敵にしても、それを受け入れなかった。曰く「私のあなの毒を飲まない」と。つまり敵にしない。相手にしないのではなく、敵にしないのである。
彼の宗団は宗門を敵とし、卑劣極まるマスコミの根拠なき記事を書く者を敵とし、共産党を敵とし、と様々な個人や団体を敵と断じて、それ許す可からずと言う。また、身内から出た裏切り者も敵である。
実に明確である。
さて、私は言う。
キリストが「汝の敵を愛せよ」と言う、その心は、つまり敵というものを想定することで、成り立つ何かである。それが、いずれは十字軍の遠征となり、イスラムとの戦い、そしてユダヤ教との戦いになった。
クリスチャンで、汝の敵を愛する者を、私は見たこともない。敵はあくまでも敵なのであり、味方ではないのだ。
欧米の者の考え方は、対立である。対立させると安心する。つまり、分かりやすいのである。それはマンガの分かりやすさに似ている。
イスラムも敵を想定して、安堵する。アラーのみが神である。それ以外の神は無い。それ以外の信者は無い。ゆえに、それ以外の者は殺してもいいのである。
兎に角、お馬鹿な者には、敵を想定させると、話が早い。企業でも、相手企業を敵として競争させる。追い越せ追い抜けでやる。
宗教とは極めて個人的な情緒であると考える私には、信じられないのである。宗教こそ、敵、味方を超えられると思うのだが、現実は、現実社会と同じで、敵を想定して、布教活動を展開する。
唯一、仏陀のみである。敵を持たなかったのは。
その仏法を持っても、敵を想定するという、つまり、仏法ではない。しかし、彼の団体は、敵を野放しにしておくことは、付け上がらせることになり、徹底して潰してしまわなければなにないと言う。敵や悪は地獄に落ちて当然と言う。
私は、それらの教えに、何も言うことが無いが、仏法を任じていることには納得出来ないのである。つまり、私が考えるところの仏法ではない。
欧米の考え方は対立であり、神と悪魔の戦いと考える。敵を悪魔と断定することも多々あり。戦いが終わる訳がない。
そこで私は言う。仏陀と、古神道と、私は、敵なるものを想定しない。仏陀は、敵の毒を受けないと言い、古神道は、神は数多くあり、対立するものではない。そして私も、敵を想定しない。人間は、もっと複雑なものであると思うからだ。
相手は敵ではなく、ライバルであろうと考える。互いに研磨して成長するライバルであろう。敵を想定していれば、いつ果てるものない戦いが続く。
宗教に布教は、付き物である。必ず、敵とする相手方の宗教を持ち出す。特に、同じ宗派であれば、他の宗教団体より、激しい憎悪を持つという不思議である。
憎悪を持って、信仰が成り立つのであろうか。信仰とは、神や仏と、私が対座することであり、他の何者も関与しないはずである。
「神に祈る前に、まず友人と和解せよ。それから神に祈れ」とはキリストの言葉である。あの複雑な民族対立の時代、そしてユダヤ教と異端、異教の多い中でのキリストの教えは、痛恨の極みを行ったであろうと思われる。