みたび日々徒然  12

木村天山 著

 ギタリスト千葉真康について言う。

 彼は実際の年齢よりも、年上に見られるという特技を持つ。ある人には、10歳も年上に見られる。本人もそれを善しとしている。これが特技でなくて何だろうか。

 千葉真康はまだ有名ではない。そのうちに、私のプロデュースで有名になる。しかし、そんなことは、どうでもいいことである。有名で、ろくな演奏をしなければ終わっている。また、有名というものも、作意があって作られるものでもあるからだ。

 彼は自分の音作りに拘る。拘るというのは、言葉としてあまり良い表現ではないが、拘りが彼の音を作るから、妥協しないで、いつまでも音を追求する。一音に全身全霊をかけるという、見事な感性を持つ。そして、器用ではない。器用ではないから、演奏が深いものになる。

 芸術家の器用さについて言うが、器用な者は、大変恵まれる。努力せず器用であるということで、評価される。それは持って生まれたもので悪いことではないが、その大半の人は、器用に堕落する。奢り、高ぶり、つまり増上慢になる。そうすると、芸術は終わる。器用さは、命取りになる。そういう芸術家を多く見た。もう見たくない。

 私は器用な人間だから、よく解る。私は音楽に素人であるが、実は、宗教曲などは、中学のころから知っていた。カトリック教会に通い、独修でオルガンを弾き、聖歌の伴奏をしていたこともある。遠い記憶である。しかし素人である。宗教曲をホールで聴きたいと思わないのは、そういうこうである。要するに、教会で聴くべき音楽だと思っている。

 西洋音楽の元は、教会音楽であり、それはキリスト教を知らないと始まらない。が、日本では、知らないで曲だけ聴いて解ったつもりになっているから、笑う。

 歌っている本人も、聴いている者も、知らずに感動しているのである。一体、何に。

 さて、千葉真康の演奏である。音の一音に心をかけるから、それは響きに付加価値がつく。音は波動であるから、波動に乗って千葉ギターの波動が体に心地よい。耳に心地よい音楽は、はいて捨てる程あるが、体に心地よい音楽は少ない。耳で聴くと思っている人は、音楽を知らない。音楽は体の細胞一つ一つが聴くのである。要するに、体が心地よくなければ、本当ではない。波動は、体の細胞一つ一つに染み渡る。音は、そういうものである。 もう一つ大切なことは芸人は、サービス業であるということ。彼がギターを弾くのは、発表会をしているのではない。コンサートというサービスを提供するのである。

 サービス精神の無い芸人は、芸人とは言わない。弾きたいから弾くならば、一人勝手に弾いていればよい。そういう音楽家は大勢いる。音楽芸人が音楽家だと思っているとしたら、それは大きな間違いである。家がつくということは、新しい一家を作ったということで、そんな冒険が、日本の音楽家には出来ない。ただでさえ、派閥や学校の権威で成り立っているのであるから、一家など作れる訳がない。皆、嫉妬とやっかみで潰される。

 千葉真康の正しさは、一人で行動していることである。つまり、昔の言い方をすれば、彼は一匹狼なのである。どこに、媚びへつらいもしない。

 媚びへつらいを好む集団からは、嫌われる。それでいい。音楽が、集団に認定されるようになったら、終わりである。終わっている音楽集団は日本に、ごまんとある。

 これから千葉真康のギターは、益々響き良く、多くのお客様を楽しませるであろう。そう、楽しませるのである。苦痛を感じるような、自己満足の演奏はしない。一人勝手な演奏をして、のうのうとしているギタリストとは違うのである。それを私は言う。

 

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