みたび日々徒然 26
木村天山
プロデューサーというのは、企画、立案者である。そして開催するための金銭的やり繰りをする。
ところで、プロデューサーが表舞台に出ないとは、誰も決めていないのだが、そういうものだと、信じている人がいて、私が受付、裏回り、時に舞台に出て挨拶をする、また、自分も舞踊やお話しなとで、出ると、怪訝な顔をする人がいる。プロデューサーの偏狭な考え方を持った人だ。
プロデューサーとは、何でも出来る人なのであるが、彼らは、プロデューサーとは、あくまでも裏の存在、表に出ない存在だと信じている。暗黙のうちに、そう決めてしまっている。実は、全く逆である。
私は、主催、プロデューサーをしているから、何でもする。当然である。
勿論、時には裏で指揮をする場合もある。臨機応変にして在るというのが、プロデューサーである。
私はこれから、益々、舞台に登場する予定である。何せ、私が一番の役者、芸人であるから、当然である。プロデューサーとは、そういうことである。それを椅子に腰掛けて、でんとして指揮をする飲みと思い込んでいるプロデューサーは、もう終わりである。つまり用無しなのである。
容量が狭いプロデューサーは、時代に合わない。芸人くづれ、役者くづれ、等々、くづれがプロデューサーをするという時代は過ぎた。人を生かし、自分を生かすことなくして、プロデューサーは成り立たないのである。
プロデューサーこそ、舞台の花である。出ても、出なくても、舞台の花なのである。
役者が監督をすると同じように、プロデューサーも監督をして、自分も出るのである。
私は、歌も歌う。舞もする。お話しもする。朗詠もする。いけばなデモンストレーションもする。実は、原作、脚本を書き、演出もするのである。それは能力があるからである。ある能力を使わずに、死んでたまるかということだ。
舞台は、人生を写す。私のプロデュースする舞台は、私の人生を写すのである。