みたび日々徒然 28

木村天山    

 

 人は、自分のうちに無いものは見えないのである。

 端的に言う。心に花の無い人は、花が見えないのである。物理的に目の前にあっても見えない。見えるものは、内にあるものである。

 物事は、見て、始めて観るということになるものである。

 理解するということは、すでに我がうちにあるから、理解出来るのであり、我がうちに無いものは、理解出来ない。理解したと思ったが、それは単に勘違いであることが多い。しかし、勘違いであることを知らないという不幸に陥る人が多々いる。

 ものを見るということは、見抜くことである。見抜いて、観るから本当になる。言葉遊びをしているのではない。

 欲に目が眩むと、ものが見えなくなる。そして、よこしまな心も、ものが見えない。

 太陽の光に照らされた物は見えるが、太陽の光を見ることは、難しい。あまりの輝きに、直視出来ない。しかし、太陽の光を直視しての真実である。照らされたものを見て、見ていると信じているのである。まず、太陽を見るべきである。

 人は影を見て、真実だと思い込む癖がある。

 理解出来ないこと、解らないことは、口にすべきではない。知らないことを、あたかも理解していると思い込むことは罪である。

 何を知っているのかということより、何を知らないのであるかということを知ることである。知ることは、知らないことを知らしめる。それを知恵という。

 そこで、人は謙虚にならざるを得ない。

 カニが甲羅に合わせて穴を掘るように、人も器に合わせて物事を捕らえる。

 端的に言う。自分より秀れている人を求めて憧れるべきである。人は、嫉妬はするが、憧れて求めるということをしない。自分のうちに多くを有している人は、一つの言葉に万感の思いを込める。あ、という言葉には、他のすべての音が含まれることを知っている。花の種には、芽を出し茂り、そして花をつけるという、すべてを有しているのである。

 聴く者は聴くがいい。

 知識を多く積んでも、理解出来ない人は、理解出来ないのである。知識とは。言葉の多さである。言葉を多く使用するから、事を理解していると勘違いする時代が長く続いた。そして薄っぺらい知識人を多く輩出した。悲劇である。

 あることの本質を知らない人の言葉は、心に響かない。知識の多い人の話が、心に響くことは少ない。

 何度も言うが、知ることは、知らないことを知る行為なのである。

 言葉にならない思いがあるとか、言葉ではない心であると言っても、言葉で表現するという不思議を考えてみるとよい。この世のことで、言葉出来ないものはない。しかし、言葉に出来る人は多くを語らない。それは言葉以上に通じるものが人にあることを知っているからだ。知識のみに拘っている人は、その無限の世界を知らない。

 私は言う。人は肉体のみに生きるのではなく、霊の存在である。霊性に目覚めなければ、事は理解出来ないのである。霊は気を発する。その気を観ることが出来なければ、ほとんど、物事は理解出来ないと知ることである。

 知識に拘る人は、水底を知らない水面のゴミのようなものである。

 私は言う。知ることより、感じることである。心を空しくして、つまり知識を捨てて、感じ取ることである。霊性の自覚である。

 知る者は感じる者である。

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