みたび日々徒然 28

木村天山    

 

 耳触りの良い言葉を発する人や集団に注意すべきである。

 彼らは、それを真実であると勘違いしている。何も知らないで、それを真実だと信じている。哀れであるが、そういう人や集団が多い。

 この世に絶対ということはない。神の世界も絶対ということはない。これこそ真実であると言う人は、真実を知らない。真実とは、人の数ほどあるのである。

 誰も人を救うことは出来ない。もし救うというなら、それはアホか、狂っている。

 人間は、因果応報であり、自業自得を生きるのである。人のそれを、肩代わりすることは出来ない。勘違いしてはいけない。人は、独りで成るものである。

 救われるのは、自分の行為で救われるのであり、人によって救われることはない。

 愛で救われるという、耳触りの良い言葉に心酔してはいけない。それはウソである。愛で救うことなど出来ない。かろうじて、死を持っている愛を行為することは出来るが、人を救うことは出来ない

 救いというのも、何からの救いか知らない人が多い。

 はっきり言うが、神や仏も人を救わない。救うという神や仏は偽物である。

 未来永劫、私は私によって成るものである。他の何物によっても私に成らない。

 意識教育、成功哲学、宗教等々、人を救うが如くあるが、それらは商売である。商売でなければ、邪まな目的があるものである。耳触りの良い言葉を発する人や集団に注意せよとは、金を巻き上げられるか、騙されて、その思想のために利用されるだけである。

 真実のものは、ただ与えるだけで満足する。ただ、花は咲いている。咲くことに意味があるのであり、それ以外のものではない。

 太陽が東から出て、西に沈むという奇跡を毎日見ていても、気づかない程、人間の質が低下したが、それに輪を掛けて、人間を盲目にさせる人や集団がある。

 たとえば、私は言う。この大自然と宇宙の神の懐にあることに気づかずに、人の想念に作り上げられた神を拝まされているということは、騙されているのである。

 仏陀は、私を拝めと言うことはなかった。最後の言葉は、真理の法と自分自身を頼めと言った。それが真実である。以後の教団は、暇潰しのための膨大な思想を作り上げて人をごまかし、盲目にした。あたかも深遠な教えである如く、妄想に堕落した。

 真実は、単純明解である。

 欧米の思想は、言葉遊びの何物でも無い。日本には、人の妄想の思想はない。

 事は単純明解であるから、欧米の国家なるものの繁雑複雑な思想によって成る国家は日本には無い。単純明解に、政は、奉り事であり、自然に現れる神々と共生して生きることであった。

 何一つ取っても、真理とは単純明解であり、深遠なる言葉遊びをするものは、ウソである。だから、言葉遊びにごまかされてはいけない。

 人生も、単純明解である。死ぬまでの暇つぶしをして生きるのである。それ以外の何物でもない。悟る必要もない。死んでから悟ればよい。

 これではなければならないということは、この世に一つもない。

 日本人は単純明解に観ていた。八百万、千万(ちおよろず)の神々と、あるがままを言う。人の数だけ神があることを観ていた。

 私の言いたいことが解るであろうか。

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