みたび日々徒然 35

木村天山    

 

 幸福とはいかなるものか。

 古代の人は幸福を「清く、明るく、直き心」と感じた。

 心であり、外の問題ではない。2500年前に、仏陀もすべては心の問題であると気づいた。

 雨や嵐にあっても、心が晴れていれば、晴れやかである。端的に言うと、そういうことだ。外側の問題ではない、すべては、内側の問題なのである。

 清い心とは、何か。清い心とは、物事に捕らわれない心である。明るい心とは、物事に捕らわれない心である。そして直き心とは、物事に捕らわれない心である。それではアホになるのかと言えば違う。

 すべては流れてゆくものと観るのである。無常である。しかし無常は無情ではない。心は完全なる自由であるから、その自由のままに心を生きるのである。

 心が自由にならないのは、知識によって捕らわれるからである。知識は一見するところ、豊かに思えるが、捕らわれると地獄になる。知識でさえも、無常なのである。

 知識で理解することを理解と思っていると、人生の重大事に動きが取れなくなる。人生は、知識ではなく、知恵によって成るものだからだ。

 知恵とは、心にある。ところが、アホな学者が、心は脳が作ると言うからおかしくなる。脳は心の支配を受けるのであり、脳が心を作るのでない。本体は心であり、その働きが脳なのである。

 心とは、感じ取る力である。

 知識によってがんじがらめにされた心は、偏り、卑屈になって感じ取る力を失う。知識を得ることが理解につながると思い続けて、心の本来の力を失わせたのである。

 感じ取ることが、最も生きるに相応しい。ところが、何かを知ることに重点を置いて、多くの心の作用を失った。

 知識で理解する人は、それ以上のものにならない。

 心が感じ取ると、太陽の光に感動する。知識で太陽の光に感動することはない。

 学問の最高峰に達した人は、無学を悟る。無学の自覚が、心の自由を保証するのである。 知識を詰め込んで心は清く明るく直くはならない。私は言う。自由な心には、捕らわれがない。捕らわれるものがない。この世に何一つ捕らわれるものがない。

 キリストは「何を食べようか、何を飲もうかと心配するな」と言う。それは、知識に陥るなということを言う。神がそれらのものを与えてくださるという言い方をする。神がそれらの物を与えてくれるはずもない。それは比喩である。心を自由に保つこと、それが生きることなのであると言うのである。

 思い煩うなというキリストは、心の自由を知っていた。その自由である心を、固まらせている様を言う。神の教えでさえも、心を偏狭にすると知っていた。何一つ、捕らわれるものは無い。教えでさえ、捕らわれるものではない。人間の作ったものである。それより、心を自由に解放することを言う。

 「野の鳥を見よ。紡ぐことも働きもしないのに、神は養う」と言うキリストは、端的に心が自由であることを言う。「信仰の薄い人達よ」とは、心の自由を失った人達ということである。

 幸福とは、心の自由を言う。

 心に従えば、事はスムーズである。生活することは、世の中との折り合いである。その折り合いに明け暮れて消耗して、生きていると勘違いすることは程、哀れなことはない。

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