みたび日々徒然 35

木村天山    

 

 万葉時代の人の心と、今の人の心には、大差がない。しかし、他のものは、様々に変容した。単純明解だったものが、複雑怪奇になった。そして、最も顕著なものは、精神であろう。

 15歳の読解力が8位から14位に落ちたというが、そんなことは、たいしたことではない。読解力を上回る情報処理能力は、断然高いだろう。

 りんごとみかんは、比べられない。他国の子供と、日本の子供を比べることは出来ない。 つまり日本の子供は、瞬時のうちに、その情報の是非を判断する能力が高いといえる。余計なものを排除してシンプルになっていると思う。

 ただし、日本語の理解力、それは読解力ではない。日本語の理解力とは、日本語の語感である。それを失いつつある。それは大人の責任であろう。

 語感を失えば、読解力などなくなる。読解力は理解力ではない所以である。

 外国語の理解力は、読解力といえるが、日本語の場合は違う。語感であり触感である。それは日本語が生きているということだ。

 私が言いたいのは、言霊、音霊のことである。

 ちりちりとか、はらはらという、日本語の擬態語は、日本語の感触、つまり語感、触感を持たなくては、解らない。日本語には、そういう音の言葉であるということ。単語に意味がある外国語にはない、言霊、音霊の力である。それが、もっとも大切なことである。 これを抜きにして、日本語の教育は、考えられない。自然と身につけてゆく時代ではなくなった。しかし、誰も教育の現場に在る者に、言霊、音霊の理解出来る者は、いない。となれば、最早、方法が無い。

 わくわくと言う擬態語の意味を知らない子供は、日本語を知らない。しずしずとか、カラカラという擬態語の意味を知らなければ、もう日本語を理解するとは言えない。外国語と同じ、単語にしか意味を見いだせないのである。

 言葉の感触は言葉の命である。

 英語で、ラブ(love)というと愛と訳すが、英語のLには意味がない、Loveになって意味を持つ。しかし、日本語の、らという音は、それ自体に意味がある。

 らアと発音する。母音のアに戻る。らは、それゆえ基本に明るい、開くという意味を生ずる。らアーーーーーーーと言えば、明るく、物事が開くのである。それを言霊、そして基本の音霊と言う。

 言霊解釈を外国語の解釈のようにやっては、理解できない。出来る訳がない。

 それを明治期から延々と続けて、今も尚、まだ言霊の本当を知らない、大馬鹿者たちである。

 一音が神であったという民族の言葉である。

 音に神を見た民族は、他に無い。聖書には「始めに言葉があった」とあるが、それは単語であり、一音ではない。「言葉は神と共にあった。言葉は神であった」といえが、微妙にそのニュアンスが違う。彼の地は、言葉の多さを知恵とするが、こちらは言葉の少ないことを知恵とする大きな違いがある。

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