みたび日々徒然 37
木村天山
腰掛け仕事のフリーター、仕事も学びもしないニート等々が多くなっているという。
私の知り合い友人にもフリーター、その日暮らし等々の人がいる。ところが、誰一人として、同じ心的状態の人はいない。フリーターと言えども、その考え方、もっと言えば、思想等、違うのである。
別に特技をもって、それで生活が出来ないからフリーターをやっている者、大志を抱き夢があって、その日暮らしをしている者、人生、何も規定するものがないと、フリーターをやっている者等、多々いる。
フリーターというのも、一つの生き方なのである。
年金も払わない、保険にも入らない者もいる。何かあった時、どうするのかという備えをしない。私は、彼を強い人間だと思うが、本人は、まあいいやという程度の考えなのであろう。
誰も助けてくれなかったら、野垂れ死にする覚悟があると観た。
野垂れ死にを理想としている友人もいるから、あっぱれである。
昔から、捨てる神あれば、拾う神ありと言うから、そんなものであろう。
私はそういう彼らを見て、感心すると共に、一人として同じ心的状態がない彼らの生き方に、共感するし、学ぶのである。
さて、世の中には、役者志望、作家志望、画家志望、音楽家志望等々、定職につかずにフリーターをして生きる者が多々いる。親の金で、のうのうと芸術家気取りのアホとは違う。だが、生計を立てて、志望を心に抱いて生きると、最初はいいが、一年、二年、そして五年、十年と経ると、その大志も汚れて、呆然と佇む者もいるだろう。
それでも、成りたいものに成れる者はいいが、成れないことの方が多い。役者志望が、生活に追われて、結局、役者にもなれず、いつまでも、その日暮らしを続けるということもある。
人生とは、厳しいものである。
生活のために、夢を断念してしまう者もいる。
ここから本筋の話をするが、志望は、それで生計を立てるということに絞られる。社会的に、それで認められるということだ。私は言う。社会が認める認めないに関わらず、自分がやりたいことをやり続けること、これが、真実なのである。
成功とは、社会的に認められることを言うのではない。成功とは、自分が自分になることを言う。
例えば、作家になりたいと思う。そう思う人は、毎日、物を書く。発表する場があろうが、なかろが、書く。書かざるを得ない。それが真実である。作家になりたいと言って、物を書かなければ、作家に成れない。それは、宝くじに当たりたければ、宝くじを買うということから始まるという、当たり前の話しである。
自分が出来ることを続けるということ以外に、方法はない。世の中の認知ではない。私が私に納得することである。
テレビに出なければ成功ではないと思って芸人をやれば、テレビに出るために、何でもするということになり、心も魂も売り渡しても、テレビに出るということになる。それで、もし私に成れるのであれば、手段を選ばずやればいい。
どんな思想があるにせよ、一番程度の低いのは、気取ることである。気取りは、何にもならない。ただ年老いるだけである。役者志望気取りとか、作家志望気取りは、アホの骨頂であることを言う。
気取りだけで生きていくという気合があるならまだいい。ポーズだけで、解ったようなことを言う者にだけは、なるなと言う。見苦しいし、哀れである。