みたび日々徒然 50
木村天山
ボランティア、支援活動等々には、善いことをするという意識がある。時に、するのではなく、させて貰っていると言う人もいる。実に、耳触りの良い言葉である。
ボランティアをした時間を、何かの足しにするという変な評価姿勢もあり、唖然とする。 善いことをするから正しいのではない。
善いことをするという意識には、どんなに隠しても傲慢の影がある。
実は、これを書くと、大変な誤解を受けることを承知で書く。
不幸にある人を、放っておいていいのである。別に支援する必要はない。それは、その人が求めたことであるからだ。その不幸という体験を通して、何かを観るために、その環境を選んだのである。ただし、そこで、それを助けるという縁を持つ人もいる。縁あればこそ、助けることが出来るのであり、縁無くば、助けることは出来ない。
個人的なボランティア活動、支援活動は、極めて個人的な情緒である。
人は不幸の道を通り抜けて、人生のテーマを真っ当するために生まれた。それが、人生の秘密である。手を出すことで、かえってその道が真っ当出来なくなることもあり、後々、大きな後悔を残す。
私が言いたいことは、善にも魔というものがあるのだということだ。
善魔という、そして慈悲魔という。
一つ、ある手本がある。松尾芭蕉である。大井川を渡る時に孤児に逢う。芭蕉は、孤児に、握り飯を与えて言う。「汝は汝の定めを泣け」と。
この行為は、非情であろうか。否である。真っ当であり、これが正しい。
孤児になったという定めが悲しければ、泣くことであると。そして、孤児であるということを生きる。孤児であるという不幸を生き抜けということである。
なまじ、善なる行為をするより、真っ当な対処である。
人は人を救うことは出来ない。断定する。人生は因果応報、自業自得である。天は、助くる者を助くのである。
それは霊学をして始めて理解出来ることである。
霊学とは、永遠の凝視であり、明晰な眼である。霊とは、目に見えない世界を観る眼である。だが、霊能力とは根本的に違う。
誤解を恐れず言う。神も仏も、人を救い得ない。救えない。救われたと思うのは、妄想である。人は、自分にしか自分を救えないのである。
何故なら、霊学からみれば、人は神や仏だからである。
この世に絶対的な宗たる教えなどない。皆、一つの方法である。
人は絶対孤独の存在である。つまり、それは一人で完成するものだからである。
これ以上は言わない。言えば、これも教えになるからである。
始めに戻る。善魔になるなかれ。もし、どうしも人を助けたいと思うなら、すべてを捨てて、ボランティアでも、支援でもするがいい。個人的な一切の喜び事を捨ててである。
慈悲魔に成るなかれ。自分の人生の空しさを、人を助けるということで、紛らわすことのないように死ぬまでの暇つぶしに人を助けるというなら、それは傲慢不遜である。助けられた方は、大変な迷惑である。その不運を越えるべく生まれたのに、とんでもない考え違いの者が、余計なことをするということになる。
目覚めて祈れ。明晰にして、永遠の凝視をするべきである。
それを総称して慈悲と言う。