みたび日々徒然 51

木村天山    

 スピリュチアルという言葉が言われる。霊的という意味なのだろうが、霊的ということが、どんなことなのか知らずに使っていると思われる。

 それは端的に霊能力という言葉に直結するのだろうが、霊的というのは、そんなことではない。霊能者が霊的であるかと言えば、違う。霊的と霊能力が違うということを知らないと、大変な過ちを犯す。

 亡くなった人の言葉を伝えるというイタコのようなことをすることが、スピリュチアル、つまり、霊的なことではない。また、予言するとか、占うとかということでもない。

 恐ろしいのは、そういう霊能力に恵まれた者が、霊的であると信じて、とんでもない情報を人に与えることである。

 霊能力にもレベルがある。その能力が、どこからのものであるかということだ。その能力は、必ずどこかの霊界と結び付くのである。本人の意思とは関係なく、どこかの霊界の介入を受ける。それを知ってのことか、知らずのことか。

 スピリュチアル、霊的とは、知恵のことである。

 この知恵が、顕界と霊界を導通させる時、霊的人間となる。それは霊能力を得ることではない。

 霊界を見る必要はないのである。はなはだしいのは、霊界を見て、顕界を見ないという愚かな者もいる。顕界を見れば、霊界を観ることになるのである。顕界は霊界の写しであるから。

 この世は、三次元であるが、時間軸を加えれば、四次元になる。つまり、この現実が、すでに霊界となっているのである。霊的存在になるということは、その現実を観る眼である。徹底した凝視である。

 徹底した凝視により知恵を得た仏陀は、知恵を生きた。完成させたと言える。霊能力を行使したのではない。弟子の目蓮が、神通力を得て、亡き母を見たいと言った時、仏陀は、それを許可しなかった。(最後は、目蓮の願いを聞いて許す)その神通力が、どこからのものであるか、仏陀は知っていた。つまり、ある霊界からの力である。この世を生きるということは、ある霊界の影響を受けることではない。人は一人で完成するものであることを、仏陀は知っていた。霊能力は、必要ないのだ。必要あるのは、知恵である。

 即物的な感動を霊能力は与えるが、それは何の効果もない。知恵を引き出すことをしない行為は、何の効果もないということだ。

 私の言いたいことは、我が自ら、霊的存在になることを教える人そこが、霊的指導者であるということだ。

 長年、マスコミ等で、霊能者として活動していた人がいたが、ある霊界に翻弄されたと言える。霊界は、波動の世界であるから、波動が違えば、見ることも逢うこともない。悪霊を見るということは、悪霊と波動が合うからである。不成仏霊と合うのは、波動が合うからである。

 自分が持つ霊的状態の霊界しか見ることが出来ない。その人が、どの霊界を見るかで、その人の霊的段階が解る。迷う霊の存在ばかりを見るのは、そういう霊界と接触しているということである。

 霊能力者が、宗教の教祖になるということも、非常に危険である。とんでもない霊界からの情報で、人を混乱させること多々あり。スピリュチアルにごまかされてはいけない。

 

TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次