みたび日々徒然 59

木村天山    

 鳴り物入りで始まった21世紀も、何のことはない、まだ20世紀の世紀末を生きている人々の群れである。新しい革袋に新しい酒を入れることなく、停滞したまま、21世紀を新しいと信じて生きている。

 一々上げないが、20世紀の決算をしているのが関の山で、進化しているのは、携帯電話、インターネットなどである。つまり、人の心は、未だに21世紀になっていないのである。

 新しい言葉が見いだせずに滞って、その場に停滞している様を何というのかを知らない。 流れを変化させなければならないと気づかない者共が、21世紀を生きられるはずがない。あらゆる場面で、世界で、変化が起こっていることを知らない。

 それはつまり20世紀のシステムに毒されて、がんじがらめにされて、動きが取れないのである。若者もしかりである。

 時代は、いつも新しいのである。

 既成のシステムの中で、のうのうと生きている者共は、新しくなることなど望んでいないだろうが、時は、来るのである。滅びに至る者は、滅びることを知らない。そんなことは、平家を持ち出すまでもなく解ることであろうが、知ることなく、のうのうと過ごしている。

 すでに滅びの中にいることを知らない者共は、哀れであるが、歴史は確実に、彼らを滅ぼすのである。

 体制の恩恵を受けて、のうのうと暮らす者共も、明日をも知らぬ未曾有の生活が待っている。江戸時代の浪人を持ち出すまでもなく、戦国時代ならいざ知らず、太平の世になり、武力より知力の必要な時期に、浪人は、また戦があると信じて武芸を磨いていた。ようやく、明治維新に戦が起こったが、あえなく武力の方法が変化して、滅びたのである。

 滅びの中にいる者は、滅びを知らないというのが、歴史の定説とは、知らなかった。

 根底から覆る時代の変化を知らずに、既成の体制の恩恵を受ける者は、自滅の道しかない。目覚めて祈れというキリストの言葉は、今も生きている。

 時代は、いつも目覚めて祈ることなのである。

 どう具体的に説いても、目覚めていない者は、理解出来ない。つまり、見ないで信じない者は、見ても信じないのである。

 いかに、新しいということを理解するのが難しいか。

 流れが確実に変化している。

 ライブドアの堀江が、テレビの時代は終わり、インターネットの時代であると言うと、フジテレビの会長は、テレビは終わることがないと言う。今、安泰の中にいる者は、先が見えないのである。テレビの時代が終わる訳がないと信じている。それは信じているだけの話で、信じていることは覆るのである。

 堀江の方を持ち上げる訳ではないが、人情も変わるのである。冷酷無残に新しい時代は、先を行く。日本放送の社員一同が、堀江の参画する経営には、同意出来ないとの声明文を出したが、新しい時代は、容赦なく人情を切るのである。

 資本のみで経営が出来る訳がないと言うが、本質は、金にかなわないではないか。そんなことは、とうに解っていたことである。しかし、変化の波が押し寄せると、途端に、人情を持ちだし、それに訴えるという愚かさである。話にならない。

 堀江という人は、時代を象徴する。あの若さだから、押し切れる。明治維新も、若者によって成った。彼が時代の精神に見入られたということを、彼が受け入れることで、彼の存在が輝く。既成の毒に犯された人には、理解出来ない存在であろう。到底、受け入れられない言葉を吐くからである。だが、よくよく考えてみれば、彼は今までの真実を口にしているだけである。心に感じていたことを口にしているだけである。皆、そう思っていたことを言うのである。

 彼の次に出る若者が、時代を大きく変化させる。彼は幕を開けたのである。

 さて、私の霊学から言えば、時代を変える、またこの世のシステムを変化させるのは、魔界の関与があってのことであるから、彼も魔界のエネルギーを得ているであろう。

 これ以上は言わない。(追伸・結局、堀江も金欲しさに小細工をして法で裁かれる。あっけなく幕を引いた。)

 

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