みたび日々徒然 61

木村天山    

 ジェンダーフリー、性教育等々、騒がしい議論をしているのを見る。

 男らしく、女らしくという垣根を取り払い、男も女も、同一線上にあり、隔たりをなくす。つまり、男でも女らしくしたい男のため、女でも男らしくしたい人のためと、私には聞こえる。

 男は男により、女は女により、それぞれの性別と役割を生きると、私は考える。中には、逆に生きたい人がいるというのは、何の問題もない。それをあえて、これ程議論する必要があるのか。

 このままでゆくと、男はゲイになって生きることが幸せであるという歪んだ考え方を持つことになるのではないかと思える。ゲイが歪んでいるというのではない。ゲイが生きやすくなるので、男はゲイになると思われるのだ。

 そして性教育である。小学生にセックスを連発させて、コンドームの装着を教えるという。教育と称して、極めて個人的情緒である性行為を、白日の元に晒し、性行為を実演するという愚かしさ。事件や事故に巻き込まれないようにということなのであろうか。性的虐待を、察知して逃げろということなのか。

 これは上面の議論であることを知らない。

 問題は、人間疎外である。

 人間疎外は自己疎外に至り、生きるという根本の精神が失われつつあるということである。それを棚上げして、何を議論するというのか。

 思春期の怒涛のごとく襲いかかる性への目覚めを通して、男や女が生まれる。その時に、同性に性的目覚めを覚える人もいる。いずれにせよ、怒涛のごとくなのであり、それは、性を通して人間であることに目覚めことでもある。動物とは違う人間の有り様に目覚める。 性差を取り除くという、呆れた考え方は、どこから来たのか。

 性同一障害という意識が認知されたことは、良いことである。治療により、彼ら、彼女らが、自ら求める性を得ることは良いことである。

 この世には、何でもあるということなのである。それをあえて具体的に絞り、議論することより大切なことは、人間疎外と、自己疎外の問題を議論することが先決である。

 では、人間疎外と自己疎外の解決は何かといえば、それは自然回帰である。いかに、自然の中で、人間回復、自己回復をするかということである。私は、ここに現代の大問題があるとみる。

 これ程、交通機関が発達しているのである。自然が少ない都会から、自然の溢れる田舎に出掛けることくらい簡単なことである。子供を自然に放ち、自然に触れさせることで、すべての問題が解決する。と言うと、自然と接することのない、そして自然を知らない大人は、そんなことで何が出来ると考える。自然を知らないからである。

 つまり、ジェンダーフリー、性教育を掲げる大人は、病んでいるのである。その自分の病を、子供の教育等に向けるから、とんでもない議論になる。まず、自分が病んでいるということを自覚すべきである。

 人間疎外と自己疎外から立ち直り、もう一度考えてみることである。「めくらが、どうしてめくらを案内できようか」そういうことである。

 一定の考え方に固執する人は、どこかを病んでいるという事実である。一定の考え方は、この世にはない。この世は、すべての考え方がある。驚くことはひとつもない。何でもありの世の中が、この世である。この世は、味噌も糞も一緒なのである。

 

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