みたび日々徒然 66

木村天山    

 聞き役ボランティアとか、占い師のように、路上で話聞きますという商売が出てきた。 聞くとは聴くことであり、聴くことは、実は、大変な能力を要する。

 それは今まで、家族や友人、知人といった縁ある相手だったが、この頃の世の中は、それさえも衰退したということであろう。

 聴く立場になるということは、単に耳を貸すということではない。聴く側に、深い人間洞察力がある。聞いても、聞いていないということが多々ある。

 カウンセラーという言葉が流行出して、この頃は、何々カウンセラーと銘打つものも多い。話を聞くからカウンセラーだと思うようになっている。

 共感と受容のカウンセラーが、励まし、指針を示すという、恐ろしいことになっている。占い師までも、カウンセラーと言う。だが、カウンセラーとか、カウンセリングのお勉強はしない。話を聞けばいいと思っている。占い師などは、指針まで述べるという驚きである。カウンセラーになっていない。

 聞く、そして聴くという行為には、聴く側の人生哲学、思想等々の深い思いがあっての行為である。しかし、その一端も現すことがない。

 その方法は、悲しいと言えば、悲しいのですねと答えるのみ。苦しいと言えば、苦しいのですねと答えるのみ。しかし、その繰り返しの中に、悩み苦しむ人の、真実を受け止め、受容する感動がある。

 共感とは、想像力である。その別名は愛とも言う。

 ソクラテスは、若者の話を聴いた。そして、それについて質問を繰り返し、哲学を成した。ただ、相手から聞き出すだけで、哲学したのである。見事な聞き役である。一言も、自分の思想や考え方を言わずに、相手の思想を引き出すし、そして己の思想を表現した。

 深く聴くということは、相手に深く興味を持つということである。興味のない相手の話を聴くことは出来ない。

 いかに相手に興味を持つかということである。

 それは、聞く側に、悩む相手より、より深く悩むという日々の生活があってのこと。アホは人の話を聞けないのである。また人の話を聞けないからアホでもある。

 お勉強は、本を読んで、物を覚えることだと信じている人は、人の話を聞けない。人の話にあることが、実は、本当の勉強であることを知らない。学歴の高い人程、人の話を聞けない訳である。また、聞いても理解出来ない。そして、人のことなど、どうでもいいのである。平然と冷酷であることが出来る。

 さて、聴くという行為は、話すという行為の深いものである。

 話すより聴くことの方がレベルが高いのは、そういうことである。ちなみに、口は一つだが、耳は二つであるという物理的なことでも、頷ける。

 話すことの倍聴くことをしなければ、ものを理解出来ないのである。

 話を聞いて、解りましたということは、理解したということであり、実行することが出来るということである。しかし、実行出来なければ、それは単に聞いたということで、理解していない、解っていないのである。

 私は占い師生活で、人の悩みを多く聞いた。そして、聴くこともあった。占い師には指針を求めるのが常であるから、その求めに応じて、占いの情報を与えた。しかし、私は知っている。人間のすべての問題は時間が解決することを。だから、余計な事を言わないのだ。

 

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