みたび日々徒然 69

木村天山    

 05年4月2日ローマ法王が死去した。

 ヨハネ・パウロ2世である。カトリック最後の法王と言われる。ある予言では。

 この法王の素晴らしさは、他宗教との対話であった。そして平和運動である。また、カトリックが犯した過ちの認定である。

 宗教が非寛容であり排他的であることを、最も意識していた法王であろう。

 一宗教が世界的に影響を与えるという巨大化は、良い悪いを越えてしまった。11億人の信徒を有した巨大宗団である。

 さて、私は言う。

 カトリックを日本語にすると、公教会と言う。公の教会であり、それはまた母なる教会とも言う。すべての宗教を包括したという意味で使われる。だが、結局は、法王の努力も空しく、それは、独り合点のものだった。

 ヨハネ・パウロ2世は、飛ぶ聖座と言われる程、各国を回って対話を繰り返した。だが、世界は、それを評価したが、それによって何か創造することはなかった。すでに教会の権威は失墜したのである。信徒にのみ、法王の権威は、認められた。

 何一つ、解決したものはなかったのである。

 彼に霊的能力があれば、彼は自分が、最後の法王であるということを意識したはずである。カトリックは、分派して、崩壊するのである。

 バチカンは、虚妄と化す。世界最大の資産を持つバチカンを支配する者共がいるのである。バチカンは象徴になれ、信仰の対象にはならない。

 この世は、因果応報、自業自得の世界である。カトリック教会が成してきた多くの、残酷無残な過ちの結果が出る時がきた。

 誰も言わないので、私が言う。

 異端として、布教と称して、数知れない人々を殺戮し続けた事実。国の乗っ取り、支配等々。それはそれは、宗教とは何ぞやを問わせるような事実がある。

 未開の土地に宣教師を送り込み、キリストを神として崇めさせて人心を掌握し、根こそぎカトリック化するという。それに従わない者は、皆殺しにしたのである。

 一時期、日本が禁教としたのは、それを察知したからである。まず宣教師が人心を掌握して、それから国を乗っ取る。秀吉、家康も、それを耳にしたのである。最後は、キリシタンが国を支配するという事実である。

 当然、対抗処置として禁止したのである。キリシタン弾圧は、残酷を極めたが、それはまた、国を守るための処置でもあった。教えだけというなら、信長のように宣教師を保護した者もいる。だが、それが違った。

 国王は、法王の下にあるというキリシタンを、為政者は当然恐れる。信仰は極めて個人的な問題であるが、それだけに留まらず、国の支配にまで及ぶとしたなら、当然の処置であろう。

 ユダヤの民族神である神を、唯一絶対の神として布教し、世界を統べるには無理がある。 私はカトリックの洗礼を受けている。教えに縁があったからである。イエズス・キリストの言葉にある真実をのみ、私は信奉する。

 キリストが言う神は、人格神であるから、それは民族神のことである。私はキリストの言葉にある真実を、受け入れている者だ。

 

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