みたび日々徒然 78

木村天山    

 日本の仏教の間違いがある。それはすべての人が、成仏、つまり仏に成れると説く。

 仏陀の言葉に、そんな言葉は無い。

 日本には大乗仏教が中国から輸入された。大乗仏教の起こりから、仏教は仏陀の仏法ではなくなった。しかし、それを今は言わない。

 三蔵法師で有名な玄奘の起こした法相宗では、救われない人間はいると断じる。仏に成れない者もいるということだ。しかし、その教えは日本に定着しなかった。

 最澄から空海まで、それについては言わない。以後日本の仏教では、皆一応に救われる、仏に成ることが出来るという教えが定着した。

 人には仏性が備わっている。人は本来仏である、等々。生きとし生ける物、すべてに仏性が宿ると言う。

 人間に関して言えば、そんなことはあり得ない。ただ、皆、仏になると言わなければ、信者が得られない故に言う。

 自力も他力も、誰もが皆、仏に成るということが前提にある。そんなことが、ある訳がない。これで私は、日本の仏教家と席を同じくしない。

 仏に成らない、いや成れない人もいる。

 そんなことは、現実の状態を見れば解る。罪を犯しても、罪の意識の無い者もいる。どうしたって、どうしようもない者がいる。そのどうしょうもない者を救うために、弥陀の本願があると言う親鸞も、その本願を受け入れることの無い者まで、救うとは言わないであろうが、親鸞は、言うらしいらしいというのは、浄土真宗の教義には、皆救われるとあるから。

 いや密教、禅宗、日蓮宗等々、日本仏教は、皆救われると言う。

 私は、すでに救われていると考える者である。仏に成らずとも、すでに救われている。太陽の下で生きること自体に救いがあると観る。悪人であろうが、太陽の光を受ける。だが、仏教で言うところの仏になるというのは、こういうことではない。

 仏教学者、及び仏教家は、本当に解っているのか、難しい言葉を並べて説明するようなので、私は分かりやすく言う。皆が仏に成れる訳ではない。仏陀もそんなことは言わない。 仏という仏陀が打ち出したオリジナルな存在に、皆が成れる訳がないのである。

 こうして仏陀の基本が不透明になったのが大乗仏教と言う。つまり迷いである。そして、その迷いを善しとする仏教支援者、または愛好家である。とんでもない愛好家であるが、彼らが僧侶などと言われているから、終わっている。

 膨大な教義という資料に盲にさせられている姿である。お勉強をして、仏に成ることは出来ない。

 仏教はキリスト教の、人は皆神の子、神に似せた者であるということを嫌うが、同じことを言うのである。神の恩寵も、仏の慈悲も同じなのである。その教えの大本は太陽信仰からなのであるが、それを知らない。

 古代原始宗教から取り入れている、古代の人が感応した在り方であるが、それを知らずに、自分たちの教えとしている。

 私は、神の子にも、仏にもならずして、すでに救われていると言う。それは太陽に光を頂いているからである。それだけの話である。霊学から言っても、それだけである。ただ、霊界は、想念の世界であるから、人それぞれの想念界に行くのみである。

 救われるという定義を置くことからして迷いである。キリストの救いは原罪という罪からの救いであると言うが、原罪という定義を置くことが、誤りである。ただし、キリスト教で、そう定めることに異論は無い。

 人間と対立した神という観念を作り上げている。それは仏という観念もそうである。ただし、仏陀当時は、仏陀本人が仏であるとするから、観念ではない。その後、観念となったのである。キリストの言う神の子というものも、キリスト・イエス当時は、彼がいたことにより、観念ではない。その後、観念となった。

 彼らは、彼らのオリジナルを生きたのである。その彼らのオリジナルに、他の人間が成れるかといえば、成れる訳がない。要するに、彼らを拝むことになる。

 彼らの言動を持って、言葉による教義を作り上げて宗教なるものを創作したのである。それらは、すべて不完全な人間が作り上げたものである。

 実は、教えというものは在る人から起こるものであり、それを受け継ぐ者からは、教えにならない。似せた者が現れるだけである。後は人間のすること、推して知るべしである。

 人間は神や仏に成る必要は全く無い。そのための奇跡も必要無い。人間は人間であればいい。覚者になる必要は無い。

 拝む対象は太陽で十分である。実際的、現実的に生かされている太陽を拝して、事は足りる。小賢しい用語を覚えて、優越感を持っても、どうしょうもない。

 教学、教理という愚かしさは、迷いの象徴である。

 宗教心と言うなら、私は情緒と言う。情操である。それは自然と共感、共有する生き方である。それ以外に人間の生きるべき道は無い。救いという観念や定義は無い。

 先に、霊界は想念の世界であると言った。大本は、そこに戻るのである。

 悪人も善人も、想念の世界に行く。神や仏の世界ではない。想念の世界に往生するのである。どうしょうもない者は、どうしょうもない者の想念に行く

 想念は情緒の別名である。

 膨大な経典を持ち、膨大な教義を有する仏教という、ごまかしに一席を投じて終わる。ちなみに言う。日本の仏教には仏法などとは、遠い。仏法はすでに廃れて、もはや無いものである。その証拠に、仏教家は、末法と言い続けて二千年を経ている。

 いつ果てるともない末法である。

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