みたび日々徒然 80

木村天山    

 宗教曲について言う。

 西洋音楽は、宗教曲から始まった。グレゴリオ聖歌である。それはカトリックである。バッハはプロテスタントでありながら、カトリックの典礼にある様式で宗教曲を創作した。ここが不思議である。しかし、誰も不思議とは言わない。

 マタイ、ヨハネ等の宗教曲は新約聖書がテーマである。キリストの受難である。

 キリストの受難の意味を知らなければ、理解出来ない。キリストの受難の意味を知る者は、クリスチャンであると思っていると、それは勘違いである。

 イエスキリストと、キリスト教徒は別物である。

 キリスト教徒の信仰の多くは、妄想である。イエスキリストを神であると信じている。信じることは、別に問題ではない。ただ、イエスキリストの受難が、キリスト教徒のものであると思い込んで入ることが、誤りなのである。

 キリストの受難は、人類的意味がある。

 それを知らないと、宗教曲の受難曲を理解出来ない。

 一つだけ、特徴的な事を言う。当時、キリストを名乗る者は多くいた。イエスもその一人である。だが、ナザレのイエスの説教は、当時、あまりにも画期的で、皆驚嘆するものだった。つまり、汝の敵を愛せよと言うのである。徹底した権威主義であった、ユダヤ教を攻撃した。当時の尊敬されるべき者を、徹底して糾弾した。自分が殺されるべく行動した。価値の転換を計ったのである。それが、人類的意味である。

 彼が、神であろうが、人間であろうが、どうでもよいことである。その行動と、説教の内容が、大問題なのである。

 誰もキリストの説教を実行出来ずに、2000年を経た、今でも、汝の敵を愛することが出来ずにいる。それが、何と、キリスト教徒であるから、笑う。

 そして、もう少し言うと、キリストは、敵という対立したものを置く。その時点で、仏陀などの思想と違う。仏陀は、生きとし生ける物は、すべて平等であると言う。敵を想定しない。敵を想定するということに、問題がある。

 敵を愛せよというのは、敵という対立した相手がいるということである。

 そしてキリストは敵によって、十字架に掛けられるのである。

 これを人類的意味と言わないで、何と言うか。キリストは、それ以後の世界を、自らの生き方で予言したのである。つまり、世界は、いつも敵を想定して、戦いを続けるのであるということだ。

 キリスト教徒は、キリストが最も嫌った生き方をしていることに気づかずにいる。白人の歴史を見れば、一目瞭然である。その傲慢不遜な歴史的事実には、反吐が出る。

 最も、キリストに遠い存在が、キリスト教徒なのである。

 さて、宗教曲である。受難曲の意味を知るには、キリストの伝えたものを理解しなければ、単なる音であり、それは雑音にもなる。

 音楽的解釈をすると、ますます宗教曲に遠くなることを、音楽家は知らない。またそれを評論する者も、権威におもねるだけで、何も評論にならない。音楽的であればあるほど、音楽に遠く、また宗教曲にも遠い。

 バッハが、十年単位を掛けて仕上げた曲には、キリストの行動と、その説教に驚嘆したからである。その表現のために、カトリックの典礼の形を取ったのである。不思議だ。

 

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