みたび日々徒然 85

木村天山   

 

 靖国神社について言う。

 05年4月26日、小泉純一郎と石原慎太郎の靖国参拝は、憲法に違反し、信教の自由を侵害されたとして、市民や韓国人の戦没者遺族が損害賠償と違憲確認、参拝差し止めを求めた裁判で、東京地裁は原告側の訴えを却下、棄却した。

 原告側は、過去の侵略戦争を肯定するメッセージを国民に与えたと言う。そう彼らは感じたというのであろう。

 こういう感じたことを持って、裁判に訴えられるなら、どんなことも訴えることが出来る。私が、そう感じたから、相手がそうなのだという、実に、アホな話である。

 私は感情論で言う。

 何故、靖国神社参拝が信教の自由を犯すのか。それこそ信教の自由であろう。

 参拝差し止めなどというのは、自由の侵害である。

 ちなみに言うが、私は霊学研究家であるから、靖国には参拝しない。また古神道研究家であるから、建物の宗教施設には観光で行くが、拝することはしない。

 はっきりと申して置くが、靖国に英霊がいると考えるのは、教義であり定義である。人の決めたことである。

 訴訟を起こす人は、靖国がなくなれば解決するのであろうか。それなら、靖国神社の解体消滅を訴えるべきである。中途半端なのである。

 要するに、そこには何かの作為がある。真実、原告が痛みを感じているとは、思われない。私ならば、靖国神社を解体させるべく活動する。

 損害賠償を求めているから、お金が欲しいのだろうか。ならば、笑う。

 侵略戦争を肯定する行為であるとは、笑わせる。世界で唯一、侵略戦争であると認めて、謝罪外交に明け暮れる日本の姿を見ているであろう。

 戦争中の軍部が行った、神札を国民に奉らせるという話なら、とんでもないと思うが、国家神道は、もはやどこにもない。衰退する神道はあるが、それ以外の何物でも無い。今や、神社は習慣である。

 建物を作る宗教は偽物であるから、はっきり言うが、霊は、建物に在るものではない。霊は霊界に在るのであり、霊に対するには、自然の中が一番である。神社参拝をするというのは、自分の意思表示であろう。特別な信仰を持つものではない。

 霊を奉るとは、自然物の中に、一時おいで頂き、そこで霊に回向するというのが、本当の霊の供養である。霊を慰めるという不遜なことは出来ない。また、それ程の能力を持った者も数少ない。

 人間の勝手でやっていることである。

 戦没者の霊を大切にしたいなら、まず、116万人の戦没者の遺骨収集を行って欲しいと思う。靖国に参拝する程の心があるならば、当然するであろうと思うが、それをしない。また、どの宗教団体もしない。とんだ、食わせ者である。それで、のうのうと霊の供養などと言う宗教家は、嘘つきと同じである。

 日本に真の宗教家がいなくなって久しい。巨大化する教団も、自分の組織の拡大を求めて、宗教なる本質を忘れる。そこで誰が作ったか知れない教義という妄想を教学と称して、教えている図は、哀れである。私は笑う。

 古神道には教義も教祖も教学も無い。霊学では神も仏の本体も確認出来ないのである。

 

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