みたび日々徒然 88

木村天山   

 

 名経典「般若心経」について言う。

 孫悟空で有名な三蔵法師玄奘が訳した、大般若経の心と言われる。色即是空という言葉は、また有名である。

 仏典は仏陀滅後、500年を経て書かれたものであるから、それはまた大変な創作力である。「我は聞いた」と始まる仏典の根拠は、信じるという一点にかかっている。

 二千年前の人の記憶力もすごいものを感じさせる。

 さて、この般若心経については、私も二十歳過ぎから、色々な人の解釈を学んできた。そしてある時期は、随分と読経したものである。深遠なるお経の意味をいつも考え続けたという経験もある。またそれを、講話という形で人に語ったこともある。

 ところが、ここにきて私は、実に般若心教は迷いのただ中に人を突っ込むものであると認識している。

 インドという土地は、考えることが好きである。屁理屈と言えるほど、言葉遊びをする。 否定の否定の否定は、肯定というような、とんでもない言葉遊びを行う。それを学んで、教学なるものを作り上げた、多くの仏教家も、大変な作業をしたものである。

 この般若心教については、宗教家のみならず、多くの人が、それなりの解釈を行い、今もって盛んである。

 私は、それはすべて死ぬまでの暇つぶしの最たるものであると思っている。

 要するに、人それぞれの捕らえ方で、いかようにでもなる、お経なのである。色即是空、空即是色。物質は空であり、空は即物質である。要するに、何ににも捕らわれることなかれと、解釈してもいいし、また、それは深遠なる思想を生むようにも思える。空の思想とは飛躍するが、魔物の教えである。いや、魔界と言おうか。

 蟻地獄に陥る。屁理屈の好きな者が好んで解釈するというのをみても解る。

 空観と言えば、聞こえはいいが、何のことはない理屈づけである。蛇が自分の尻尾を齧るという、愚かさに似ている。終わりの無い自家中毒に陥る。

 インドから中国へゆってきた空観は、また中国で華々しく妄想が膨らみ、それはそれは大思想のように、日本に伝えられた。

 結局、人間の創作した妄想である。

 無有恐怖遠離一切顛倒夢想とあるが、般若心経が、そのものであろう。

 一切は、夢想である。経典もしかり。

 ただ、霊学から言うと、音霊、言霊でみると、大変に強い波動を放つもので、時に、霊的現象を引き起こす。例えば、法華経を唱えた時に起こる、霊的作用を静める力を発揮したりする。何故かは、私にもよく解らない。

 陀羅尼と言われるお経は、インドの呪術であるが、その辺にポイントがあるのであろう。私には、それは魔界のものであるとしか思われない。次元の高い世界から見れば、こけおどしであろうが、低次元の霊界では通用する。

 事は単純明解である。古神道の「清らかで明るい素直な心」で十分である。

 太陽信仰という、素直な心得さえあれば、屁理屈はいらない。心を鏡のようにしていれば、どんな毒をも反射して、毒は毒に戻るのである。

 ちなみに、私は時々に応じて、般若心経を唱えることがある。玄奘の苦心を思うのである。大般若経の心臓部を訳したのである。それはそれは大変なことであったろうと。


TOP PAGE   各種エッセイ目次  みたび日々徒然 目次