みたび日々徒然 89
木村天山
断章
神様は奇跡は行いません。
神様の行いは、当たり前の中にあります。
もし、神様が奇跡を行うなら、人知れず咲く野の花に、人知れず吹く風に託します。
神様の行いは、人を驚かしません。朝のぼる太陽に、地を潤す雨に、 当たり前の中に、神様の行為があります。
言霊や音霊を知らない人が遊ぶ哲学や思想は、滑稽です。
すべての行為の最初に言葉がありますが、それを哲学や思想に見いだすことは出来ません。哲学や思想によって動かされているとしたなら、それは勘違いです。
あたかも〜である如く、信じているのです。
一輪の花を咲かせることも、一粒の麦も育てることは出来ません。
人が考え出した哲学や思想は、人を別け隔てて平気でいます。
この世は、人を別け隔てないもので、満ち満ちています。
高邁、深遠に見える哲学や思想は、蜃気楼、幻想です。
「人はパンのみに生きるのではなく、神の言葉による」とキリストは言います。
パンも必要なのです。生きることは食べることです。食べなければ死にます。食べてから始まるのです。すべては、当たり前のことから始まります。
体より、霊や魂を重んじる考え方は、迷いです。体の存在意義に気づかないことは不幸です。霊や魂より、体を軽く扱う考え方は迷いです。
欲望を罪や悪として考える宗教や哲学、思想は迷いの最も足るものです。
欲望を恵みであることを知らない、未成熟な人が暇にまかせて遊んだ考えです。
欲望の空しさに気づいて、聖人、賢者になった人、それは体質です。
そのようにしか生きられなかったのです。
しかし、彼らも食べて生きていました。体が生きるために欲するもの、それが欲望です。 「欲するもの」を否定してはじまった宗教、哲学、思想は、迷いです。
「空」の思想は言葉遊びです。人の考え出した暇つぶしです。「空」を固定した考え方にした途端に、それは「空」ではなくなります。
「無」の思想は、人の考え出した暇つぶしです。
あたかも深遠、高邁な思想のようですが、実体はありません。言葉遊びの最も足るものです。それを、あたかもある如く、多くの人が言葉の迷路に陥って、尚、それを悟ろうと呻吟します。愚かなことです。
在るものは在り、無いものは無いのです。在るものが無いとは、迷いです。
人の考え出すものは、滑稽です。生きるために暇を潰しているだけのこと。
太陽を見つめ続け、太陽に生かされていることに気づけば、それが言葉遊びだとすぐに解ります。
太陽が「空」や「無」であれば、すべてのものは在りません。
お解りですか。
目に見えて在るものさえ見ない人が、暇にまかせて考え出した言葉遊びであることを。