みたび日々徒然 95
木村天山
今年05年春の私立大学、短大の定員割れが過去最高に達した。
いよいよ、アホな大学教授の受難の時であろう。
優秀な者は大学になど残らず、社会の第一線で働くが、おべんちゃらと、楽してお金を得たい者、能力の無い者が、教授になる。給料以外にでも、研究費と称し、過分に得たお金を勝手に使用して、遊んでいるアホな教授も、いよいよ年貢の納め時である。
仕事が無くなって、国の責任にするのであろうか。私は笑う。
四年制の私立大学では、160校、全体の三割、短大では158校と、全体の四割が定員割れである。
寝ぼけた授業をして、のまうのうとしていたツケが、こうして崩壊するである。人口減少という不可抗力であると思うな。地位に安穏としていたツケである。
ある私立大学の教授が一年間、研究費として大枚の金を貰い、京都住まいで、何を研究するのか、豪華な生活をしている。得意げに言うその、アホさ振りは、救いようがない。 それのみか社会的地位が高いと信じている様は哀れである。
この教育の退廃の元凶が、自分にあるのだと思っていない証拠である。それも東洋哲学を教えている。ハウツー物の本を呼んでも事足りる授業を平気でしていて、気づかない様は、哀れを通り越して、滑稽である。それを許している大学という、現場も救われない。学長も、同じ穴のムジナであろう。
私の知り合いの能力のあるバイオリン奏者は、結局、大学教授の地位を捨てて、演奏者として活動する。アホな教授連中とやっていられないと言う。
収入が減っても、それよりいいというのである。そういうことである。
社会生活を送るならば、小学程度のお勉強で十分である。それ以上になると、本人が、止むに止まれず、勉学の意志に燃えるから高校、大学と進むのである。
また、極めて言えば、大学などに行かなくても、本当に学びたい者は、独学をする。大学へは、卒業証書を買いに行くのである。見栄のためにである。
内容の伴わない学問程、滑稽なものはない。
私の知り合いの友人の中学生の息子は、数学が好きで、すでに大学並の数学を独学している。学問とは、そういうものである。学びたくない者が、するものではない。学びたくない者が、大学に行くのであるから、アホな教授も、突き上げを食うことなく、のうのうとその地位に甘んじられる。
大学は、どんどん潰れるであろう。
暗記と知識のみの教育の愚かさが暴露される。創意も工夫も、創造性もない教育とは、教育と呼べない。まして、人間性を養う教育でなければ、役立たずの、害である。
人間性とは何か。それは、人間であることの表現能力である。そしてまた人間性とは、絶望を知る理性である。やみくもな希望を与えて、今までの教育は、子供たちにウソを教えていた。人間の限界を教えること、それが教育である。
無限の能力など、ある訳がない。努力がすべて報われるということがある訳がない。成功とは、世の中に知られて、お金を得ることではない。自分が欲して、やりたいことをやり続けられるということが成功でることを、誰も教えない。すべての人が幸福に生きられることはない。それなら、宗教のウソと同じである。人間とは不平等極まりない者であるということを、誰も教えない。