時事放談2

木村天山

 霊能力と、霊的能力について言う。

 霊的能力とは、誰もが持つものである。全く霊感などないという人はいない。しかし全然感じることが無いという人は、実は強い霊気の持ち主か、それを鈍化させるべくの因縁がある。

 前者は、強い霊気で霊的なものを受けない。霊媒体質ではない。実に健康である。後者は、鈍化させなければ生きられない故に、霊的な物事に鈍感なのである。

 さて、霊能力と、霊的能力は、全く違う。それが一緒にされるので、混乱する。

 占い師の広告などを見ると、皆、霊能者の如くに宣伝している。そんなに霊能者がいるはずがない。とすれば、霊的能力であろう。それはつまり、妄想が九割である。特に女性が多いのは、感情過多になりやすい故であろう。感情と霊感とが同居するのである。まして占いの方法を実践している内に、ある程度の勘というものが現れる。それを霊感と勘違いする。

 彼らは、何となく感じたとか思ったことを口にする。それが、遠からず当たっている場合、自分には霊能力がある信じ込む。この信じ込むというのがくせ者で、ついに霊能者を名乗る。

 例えば、一つの例を上げる。

 観音様がついているという占い師がいる。本人は、真剣そのものである。だが、観音菩薩が着くということは、在り得ないのである。何故なら、観音菩薩とは、観念であり、ある教えの象徴である。どうしてそれがつくことが出来るのか。全く、そういう知識を持たない、知らない。おそるべしである。

 それならば、不動明王もしかり、毘沙門天等々もしかり。ましてインドから来たものは、そのすべてが、魔界の神である。妄想、観念の産物である。

 もし、そういう者が現れたというならば、それは、そう名乗る人霊である。または、動物霊である。

 確かに、観音様信仰をしていた人が霊界で、観音様のいるであろう霊界に行くが、観音様というのは、観念であるから、形も姿もないが、想像で見えるのである。それが霊界の不思議であるから、それは別の機会に話す。

 単なる霊媒体質の者が、霊感があると言うと、それは少しく憑依しやすいということで、それは霊感と呼ばない。絶えず、霊の作用を受けているから、あたかも霊感、霊能があると思い込むのである。

 その良い例は、南無阿弥陀仏がついたとか、南無妙法蓮華経がついたと言わないであろう。観音様も、それと同じなのであるが・・・

 さて、それでは霊能者とは何か。

 異次元、つまり、四次元より上の次元と導通する能力を持つ者である。

 その前に、私は霊能者ではない。私は、古神道の信仰者である。信奉者であると言ってもよい。冷静に、霊能者を観ることが出来る。

 神人という霊能者も、今までに多々いたことだろう。しかし、私は会ったことがない。

 私が会った霊能者は、霊的能力者であった。それ以上は、今は言わない。

 霊能者が、どの次元の霊界と関わっているか、または情報を得ているかが、問題である。死者と話す霊能者は、その死者の次元のみと交信出来る者であり、それ以上ではない。

 取り立てて死者と話すようなことが、あるだろうか。少しすれば、自分も死んで霊界に行くのである。それまで待たずに、死者に何を聞くのであろうか。それが不思議である。

 悩み多き迷える私が死んで、悩みがなくなり、迷いが無くなるであろうか。そんなことはない。死んでも、悩み、迷うのが当然である。

 そんな霊から話を聞いても、らちが明かないだろう。

 成仏したという言い方は、全く霊界を知らない者の言葉である。つまり仏に成ったということであるが、仏というものは観念であるから、仏になることは無い。

 悟りというものも、観念であるから、悟ったと思うのは妄想である。

 それは何かを感じ取ったということであり、大悟したという仏教家は、中でも禅宗などの連中は、霊界の妄想の世界に行くであろう。

 何を考えたかではなく、霊界では何を成したかが、すべてを決める。確かに、霊界の中には想念の世界もあるが、それは想念であり実体ではない。哲学者や作家などが集う霊界であり、妄想の世界で死後も何やらしている。私も、よく解らない。

 第一に大切なことは、何を成したかである。それ以外の評価は霊界に無い。

 もし、仮に神の世界があるとしたなら、そこは誰もいない。神なる霊は、行為の存在であるから、そんな場所に安住していない。

 即行為の世界が神の世界である。もたもた考えている、この世の哲学や思想というのもを、遥かに超えている。

 利他の行為しか、神の世界には無い。

 無私の行為しか、神の世界には無い。

 教えを宣べている暇は無いのである。その写しが自然である。その最も代表的な存在は太陽である。我が燃えることによって、他が在るのであり、我が与えることによって我が在るのである。神とは、そういう存在である。

 霊界に神の場所は無い。在るのは、すべの生き物の霊と魂の場所である。

 つまり、すべての次元は神の世界に在るのである。

 宗教の教祖たちは、神ではない。勿論、仏と言われる存在ではない。もしそうなら、人間に生まれることは無い。

 彼らは、お人良しなのである。どれ程の霊能力があろうと、神でも仏でもない。というより、神とか仏という観念は霊界には無い。

 あたかも神の如くに、仏の如くに奉っても、彼らは神でも仏でもない。それは在り得ないことである。

 つまり宗教、神や仏は人間が創造したものであり、便宜上私が神とか仏というものは、在って在るものであり、観念でも言葉にして崇めるものでもない。淡々として、ただ在るもの。大宇宙の秩序と法則である。

 霊能者に戻るが、その能力も限られてある。どの次元の霊界と関わっているのかということであり、神とか、仏という人間が触れることの出来ないものと関わることはない。

 すべては神のうちにあるのであるから・・・

 お解りであろうか。

 もし神ならば、人間として生まれることは無い。そして神の世界と同じというならば、神でなければ、在り得ない。人間は神では無い。

 霊界はヘルツ単位以上の細かな世界であるから、少しでも波動が違うと会うことは出来ない。隣にいても無いものと同じである。つまり、この世も霊界なのである。隣に誰かがいても、全く接触しない。それが霊界である。

 三次元には、二次元と一次元が含まれてある。ということは多次元には三次元が含まれてある。つまり、霊界には、三次元が含まれてあるから、霊界にいる者は、三次元を即座に見られるのである。

 霊能者は、隣にいる霊と導通しているだけである。ただし、その導通している霊が、どの次元なのかが、重大なのであるが・・・

 高い次元にいる霊と話すことは出来ない。霊能者が関われるのは、精々四次元の霊であろう。それ以上の霊界と関わるとしたなら、通常の生活は出来ない。

 それ以上の波動なら、この世で生きることは出来ない。

 ただし、四次元と接触しても、それはそれは大したことである。奇跡を起こすことなど簡単である。特に、魔界と関わったり、四次元でも、特殊な世界と関われば、奇跡は簡単である。これ以上は表現出来ない。

 神人と言われる人の霊界探索等があるが、あれは、その本人の霊界であり、すべの人の霊界ではない。霊界の奥義、それは百人百様であると言う。

 大切なことは、知らないことは知らないのである。知らないことを知っていると言うことは出来ない。私も、すへでの霊界を知らない。

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