時事放談 3
新聞のコラムに「宮中にはいまも女性に特有な血をケガレとして忌避する女性差別の構造があるからだ」とあった。つまり女性天皇になれば、それが大変な束縛になるということであるらしい。
ジェンダーフリー(男女の性差の差別を自由にする)という考え方がある。早い話が、男女平等である。
人間として平等であるという考え方には反対しない。当然、平等である。だが、男と女の役割は違う。差別ではなく区別である。
さて、神道では、死をケガレとして、忌み嫌う。
このケガレを、いつからか、汚れとして解釈するようになってから、おかしくなった。穢れは汚れではない。
言霊の音霊を知らないから、こういうことになる。
穢れとは、気が枯れるという意味である。気が枯れることを「けがれ」と言う。
けがれは、音霊で言うと、けエがアれエである。え、という音が二つ、あ、という音が一つある。
エは、抑える、動きが止まることである。アは、明るい、開くである。抑えることによって開くのである。
女性差別の考え方ではなく、女性と男性の、働きの違いを言うのである。
生理の血を、穢れ、ケガレとして考えるのは、当然である。つまりその血は、気の枯れたものである。多くの民族は、それを穢れと考えていたのは、正しい。
気が枯れた血を排泄する時期を、女性の穢れの時と考えていた。
それが何故、女性差別なのか。
その血を抑えるから、そこに命が与えられる。つまり、気の枯れたものを排泄することによって、新しい命を受け入れる準備が出来る。それを、何故女性差別というのか。
神聖な場所に、穢れた血を持つ女性を抑えることこそ、正しいのである。死も同じである。神聖な場所に、魂の抜けた死体は穢れである。
穢れは汚れではないないということである。穢れは汚い汚れたものではない。
ケガレの意味を正しく伝えることが必要である。
ジャンダーフリーなる運動は、一見して、正しいものと受け取られるが、全く別次元の運動である。つまり、男女を平等とするのは、その違いも無しということである。そんなことはあり得ない。魂と心と精神を持つものとしては平等であるが、肉体としては平等ではない。これを、子供たちに教えるとしたなら、それは大変な罪である。
男性が女性化し、女性が男性化することを、良しとする。「らしさ」を差別と考える、その元は、何か。それはキリスト教国に多い。その尻馬に乗る日本のアホな者共である。
それならば、どうして男が男になるのか、どうして女は女になるのか。
はっきり言う。男も女も、一時期別々にして教育することが、最も望ましい。つまり、一定の期間、同性愛的関係を持って、それを通して異性を愛することを学ぶことが、理想である。
つまり、男は女を理解出来ない。女もしかり。男と女は誤解によって成り立つのである。しかし、同性を愛することによって、愛するという行為と情緒を学ぶのである。同性は理解が可能である。その理解を前提に誤解する関係である男女の関係を作ってゆくことが、知恵であった。
古代の人は、それを知っていて、男組と女組を別けて、育てたのである。
男は男によって育ち、女は女によって育つ。そして、家族を作るには、男と女という別物によって成ることを教えた。
それが今、男女平等と言うと、すべてを平等と考える。それは、極めて不自然なことである。どうして、それに気づかないのか。
私は言う。それは魔界的である。人間の考えることではない。
悪魔が人間を撹乱させるためにしているとしか思えない。
平等というアホな考え方である。平等と言うと、あたかも人々の支持を得られると思い込んでいる。一体、この世に平等ということがあり得るか。少し、ほんの少し考えるだけで、それがウソであることが解る。
自由と博愛と平等など、この世には無い。
それを唱えれば唱える程、それが遠のくのである。
ジェンダーフリーを唱えれば唱える程、それが遠のくと、何故解らないのか。