時事放談 4

 クラシック音楽が格式高いと思い込んでいる、その原因は西洋崇拝と西洋礼讚である。明治期から、それは顕著になった。そして二つの大戦後である。敗戦を迎えた後は、雪崩を打つように、西洋は素晴らしいの一言。

 クラシック音楽教育も、そこからのもの。そして、それを支援するのは、日本には良いものがない。日本の芸術など、世界に通用しないであろうという勝手な予測である。

 だから、アホなクラシック音楽家は、格調高いと信じ込んでいる。

 簡単に言う。日本の音楽は、伴奏と歌う音が違うという特異な音楽である。それだけで、大変な芸術的価値があると思うが、アホは知らないから、また知ろうとしないから、知らない。

 民謡しかり、長唄、小唄から、清元、常磐津等々、伴奏と歌の音が違う、その互いの許容範囲の音の粋を楽しむ音楽なのであり、日本の音楽は、神楽に元がある。

 神楽については、今は多くを言わない。

 西洋礼讚は、白人の姿形の劣等感からも始まっている。

 

 よく聞くがいい。

 日本の西洋音楽を、彼の地にて演奏しても喜ばれない。当然である。彼の地の音楽であるから、チンチクリンな東洋の東の島国の者共が、何をかするのかという意識であろう。 それより、日本の音楽をすると、彼らは歓迎する。

 お解りか。クラシックの音楽家は、それを知らない。西洋音楽をやりたいならば、あちらに移住することである。日本にて、いくら格式高くやっていても、程度が知れている。よその人のものである。

 私は言う。

 クラシックなとを格式が高いと言わない。格式とは何か。それは伝統に裏打ちされるものである。となれば、建国2666年の伝統ある日本の音楽のことである。この日本の伝統を持つ国は、世界に唯一、日本だけである。

 ただしそれで、能や歌舞伎の者が、格式が高いと勘違いしては、困る。あれは、精々、能ならば600年、歌舞伎は、江戸時代の発祥である。

 和泉流という能の一部の家元の母親が「格式ある家柄」と言った時に、私は笑った。たかが、600年前は河や乞食と言われていたことを忘れたのである。あれを勘違いのアホと言う。

 日本の音楽の発祥は、神楽であると言った。そしてもう一つは、歌は話し言葉の延長であったということである。すなわち朗詠である。和歌を詠じるということ。それは日本書紀にも書かれている。天皇の前で、自作の歌を詠じるのである。

 それが残っているのが、天皇の歌会初めに詠じる、藤原冷泉家の朗詠である。

                                 

 ともあれ。西洋礼讚、崇拝の音楽家に言う。

 西洋とは、野蛮な人種の野蛮な国々である。他民族を平気で皆殺しにする。特に、その宗教観は排他的、非寛容である。その大本がカトリック教会、ユダヤ教、そしてキリスト教諸派である。信じられない宗教観を持つ。日本にはそういうものは皆無である。

 人間の基本的心情である宗教観が、あれ程、野蛮な民族は無い。その西洋の音楽である。ゆめゆめ間違うことのないように。今、音楽というもののみ取り出して良い時代になったが、ある時期の音楽は支配者のために利用されたものであり、西洋音楽の根底には、非人間的、排他的、非寛容があることを知っておくべきである。

 世界的指揮者となった小沢という者がいるが、前世で西洋音楽と深く関わっていたのであろう。あれを誇りに思うことはない。たかが、西洋音楽である。もし、音楽として素晴らしいものがあるならば、多くの民族音楽の中にある。西洋音楽は、強制されて教えられたという日本の教育に、大きな原因があるのであり、それを勘違いすることのないように。 再度言う。西洋音楽が格式が高いと思い込んでいる者は、即座に改めるべきである。西洋音楽の身の程を知るべきである。

 自然の壮大な音楽に感動出来ない者が、オーケストラを聞いて感動するというのは、狂っているのである。それが日本的考え方である。

 根本から考え直すべき時期がきている。

 これから哲学、思想についても西洋のウソを暴いてゆくことにする。ギリシャ思想を根本に置いて成り立った西洋の哲学に希望は無い。言葉遊びの何物でもない。言葉というのは、そんなものではない。というより、彼の地には、言葉というものの、本来姿は無い。つまり言葉を記号としか考えられないのである。日本の言葉は、言霊であり音霊である。根本から違う。

 語り尽くしても、終わらない不毛な哲学や思想、そして神学というものを生み出した彼の地に、言葉の本当の姿は無い。言葉の何たるかを知らない民族なのである。

 アメーバーから進化してきたという民族と、天孫降臨してきた民族の違いである。

 ダーウィンの進化論は、西洋人のことである。ゆめゆめ、誤ってはいけない。

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