時事放弾 7 2006/8/18
木村天山
タイにて考えたこと。その1。
タイ国王60年在位記念の日に、私はバンコクにいた。
市内に溢れる黄色のTシャツである。王の生まれた月曜日の色が黄色であることから、皆黄色の衣服をまとってのお祝いである。
タイの王様は、日本の天皇と同じく、象徴である。
公務員は皆、黄色のTシャツを着るようにとのお達しが出たと言う。もし日本でそんなことをしたなら、どんな反応になるかは、想像がつく。
様々な民族が一つにまとまるのは、ひとえに王様の存在であろうと思った。
ホテルで在位記念式典のテレビを見た。見たというのは、見たかったのではなく、至るところで記念式典のテレビがついているのだ。
日本の天皇と王様の会見が映し出されると、私に向かって「ジャパンキング」と呼びかける人がいた。私は、キングではなくエンペラーだと言いたかったが止めた。
私の素直な、そして感情的な感想を言う。
なんと天皇の姿がみすぼらしいものかということだ。他の来賓の姿は、皆民族衣装をまとい、それは壮観なものだった。しかし、天皇だけは、スーツ姿で静かに笑顔をたたえて、王様と話をしている。存在を誇示することなく、淡々とである。私は、せめて簡易の民族衣装をまとって欲しいと思った。
天皇についての考え方は自由であるから、何とでも言える。それを社会は許す。素晴らしい日本である。
だが、一歩他国へ出た時、天皇は日本の顔になる。
世界で唯一の伝統ある家系であり、王様ではなく皇帝であり、それは武力によって成ったものではなく、民の尊敬を受けて成っているものである。勿論、神武統制の時に、武力が使われたということはあるが、以後、天皇家は民を武力で統治しなかった。
タイへの膨大な援助資金を思えば、天皇は、どの国賓よりも上座に置かれるべきである。私の感情的怒りは、日本の国民に向けられた。国際化時代と言われるが、何も知らない国際化である。何せ、天皇の存在の重きを知らない。日本の代表して最も相応しい人間である天皇の存在を、何故、日本人は知ろうとしないのか。
そして、天皇をスーツ姿で公式の式典に望ませる馬鹿者どもである。
天皇の存在云々を言うならば、世界に通用する代表的な日本人を上げてみよと私は言う。 そんな気の利いた者は天皇以外にいない。
あの立ち振る舞いは、2600年の伝統を背負ってのものである。そんな日本人が、どこにいるか。
天皇イコール戦争という短絡的思考のみ持ち合わせているアホどもである。
私は何度も言っているが、天皇とは、民族の魂である言葉の家元である。つまりお歌の家元である。そして祭司である。国民の平安を祈る存在である。歴史を振り返れば、それが解る。天皇無用論者は、天皇のマイナスイメージを最大限に喧伝するが、天皇在りての日本の有り様を見ない、見えないのである。そしてその彼らは、何と、野蛮な西洋思想、社会主義、共産主義という妄想に拘泥しているのである。そして何の責任も負わない。
私は言う。もし天皇が無くなれば、日本に誇るべきものが確実に一つ減る。その一つは、大変大きな意義のあるものである。
タイの国民と日本の国民を比べることは出来ないが、それでも、あのタイ国王に対するタイ人の様は、尊敬に値する。至るところに王様の肖像が掲げられてあり、それによって在る一つの精神的支柱を持つという感覚である。そして王様は、象徴なのであり、実生活には、何の関わりもない。
聞くところ、王様は、多くの慈善事業を成しているという。勿論、それは王様の名前での政治的事業であろうが、王様を掲げて成すということろに、意義と意味がある。
権威というものの様を正しく使用するということは、礼儀作法である。
あの式典の日、日本人で民族衣装を着ていたのは、唯一、私であろう。
道を歩けば、何人にも声を掛けられた。
バンコクの地下鉄建設の資金のおおよそ80パーセントを日本が資金援助したことは、記憶に新しい。しかし、それを知るタイ人や日本人は多くは知らないのである。
日本の援助なくして、タイの経済成長は無い。
勿論、尊敬されるだけの日本ではない。売春ツアーなどというアホな旅行団体があることも事実である。
タイ人はセックスに対して、非常に大らかであり、特別な罪悪感を持たないという驚きのセックス感覚があることも事実だ。
エイズ患者の多さも、それを物語る。日本人がタイに旅してエイズに成る者も非常に多い。同性愛セックスも、日常的に当たり前にある。家族にゲイがいることも当たり前にある。ゲイ差別も緩やかである。
タイでは日本人がタイに移住する場合の寛大な処置を取っている。定年退職した人が対に住むという現実もある。それもタイの経済効果を上げる一つの方法である。
一時期、日本人のアホどもが、タイの貧しい少年少女をセックスの対象にして、顰蹙を買い、タイの警察に逮捕されるということもあり、反日感情が出たこともあったが、それでも親日である。
生活するために体を売るというのは、日本でも戦後に多くあったが、東南アジアは、今でもそういう状況である。貧富の差も激しい。
これについても、おいおい書くことにする。