時事放談 11 2006/8/24
木村天山
人を食ったような占い師がテレビで有名になり、その占い本が売れて、意気揚々である。地獄に落ちる等々の言葉を使い、非常に見苦しい様を見て、私は自分も占い師であるが、矢張り占い師は、詐欺師の一歩手前か、その後だと思うのである。
さて、占い師ごときが、また先祖供養等の話をするから、私は笑う。
墓石を売るためのものだと知ってはいるが、彼の占い師は、先祖供養については、全く無知としか言いようがない。
その前に言っておく。マスコミに出れば、間違いない、偉いと思う人々が大勢いるという、この国の哀れさである。日本のマスコミは、害になれ、薬にならない。
さて、先祖供養である。この愚かとも言える教えを誰がしたのか。ブッダか。否である。ブッダの仏法は、生きている者のためにある。供養とは、仏教家、僧侶の出番であるが、開祖はそんなことを言っていない。一体、何を持っての供養なのであるか。ましてや、墓石云々とは、笑わせる。
墓相というものがあるが、あれは中国の風水の考え方から出ている。宗教家や、僧侶も、墓石屋も関係ない。
墓相が悪くて、先祖が云々と言う話は、全くの誤りである。ただし、先祖に墓に拘る人がいる場合は、墓に憑くこともある。
結論から言う。先祖を供養するのであれば、自分の生き方以外にない。それ以上の方法はない。
お経を上げて、先祖が喜ぶとしたならば、それはお経に捕らわれているということであり、供養以前の問題である。
本来、霊界には宗教はない。あると思っているとしたならば、それは勘違いか、妄想であり、そういう死者がいれば、まずそこを教えるはずである。
先祖供養して利益を得るという考え方は、誤りである。それはそう思い込んで先祖供養するから、自己暗示で良くなるのである。
先祖供養ではなく、実は、先祖は、こちらに供養しているのが本当である。つまり子孫供養である。親が子の幸せを願わないはずがあろうか。勿論、狂っている親は、子の幸せを願わないであろうが、通常の場合は、親は子の幸せを願う。先祖も同じである。
子孫の生き方が、先祖を感動させ、それにより、先祖は増す増すと霊界にして向上するのである。
何せ、霊界入りした者は、この世に捕らわれない。それが真実である。
この世に捕らわれて、墓をこうせい、供物をどうせいと言うのは、霊界入りしていない、迷った霊、つまり幽霊になっている証拠である。
死後の世界を信じないと言う者に、それが多い。死後の世界は無いと信じているから、自分の死んだことを信じられないのである。実に、哀れな幽霊である。そして浮遊する。そのための先祖供養を言うのであるろうか、あの馬鹿な占い師は。いやいや、墓石を売るために言うのであろう。それは実証済みである。
信心の篤い人は、先祖も信心が篤かった。不信心な人の先祖は、不信心である。
供養される人は、自分も供養をしていた。こうして、自業自得となる。
供養の本当の意味は、自分を導き、教えを垂れる人に、尊敬の念を持って供養するという意味である。ブッダ曰く「尊敬すべき聖者を見れば、彼の人に供養せよ」である。
先祖を供養せよとは、一言も言っていない。
自分の生き方で供養出来ないものが、読経し、供物を上げて、先祖を供養出来るはずが無い。まして墓石がどうのとの考え方はナンセンスである。
最も、人を脅し易い形が先祖供養であるから、巨大宗教も、小型新興宗教も、皆一様に、先祖供養を説く。愚かしい。
ましてや占い師ごときが、先祖供養を説くとは、身分不相応である。身の程を知れと言う。自分は先祖供養により、成功していると言うのであろうか。馬鹿馬鹿しい。後ろに、魔界の霊団が憑いて、成功していることを知らない。
魔界とは、霊界とは意を異にする。次元も空間も違う。地獄の方が増しである。地獄は、霊界に繋がる。魔界は別世界である。魔物の集団に手玉にされている。
その末路は哀れである。
ある有名な占い師がハワイにて殺された。自分の息子と一緒にである。その霊感を魔界から得ていることを知らぬが故の悲劇である。
彼の占い師は、霊感ではない。占いに似た、占いもどきで、占い師になっているのである。単なる魔物の山師であろう。
テレビというものは恐ろしい。それが、多くの人を信用させるものになるのである。
彼の占い師によって、非業の死を遂げる者が大勢いると思うと、哀れである。
答えは、すぐに見える。
ちなみに言うが、日本の仏教での供養は、ウソである。それで先祖が喜んでいると言うならば、その先祖は、この世と、あの世の境目でうろうろしている幽霊、つまり幽体のままでいるはずである。
だから人にも憑く。完全に霊界入りした霊体は、全くそんなものを必要としない。幽体を脱ぎ捨てているから、人間として肉体があった時のすべてから解放されてある。
救いという考え方があるとすれば、そういうことであろう。
神信心も、仏信心も無くても、霊界入りする人も大勢いる。それは生き方による。
いずれ詳しく書くことにする。