時事放弾16 2006/9/3

木村天山

 人から非難される、批判されることを喜んでも、決して悲しむ、または憎むことをしてはならない。つまり、相手にされているということだからだ。

 もし、それが無くなったら、社会的に死ぬ時である。死んでから批判されたら、大したものである。

 私は、20歳過ぎに札幌に出て、一人社会に身を置いた。孤立無援で、占い師、いけばなを教え、そして、茶の湯を舞踊を教えた。

 その間の凄まじいばかりの批判や非難といったらなかった。

 私の弟子が、せめて先生が名のある家の・・・と言った時は、心底、世の中というものを理解した。

 ある日のこと。すすきのの知り合いのママのスナックに飲みに出た。私が入ると、満席の客が、腰を上げて店を出た。

 その後、ママが私に「今、先生の悪口を言ってたのよ」と言う。ママは悪気ではない。淡々として私のことを言う。

 山師、金の亡者、女たらし、男好き、ありとあらゆる、噂を聞いた。

 それでよし。

 言われることは有名である証拠。誰もが注目している。まして、酒の肴になるのである。私も大した者だと思った。

 もし、私がそれに負けていたならば、私は、人生を棄てただろう。

 藤岡宣男は非常に賢い人間だった。彼を嫌う人も、彼は味方につける術を知っていた。その藤岡から、いつも私は言われた。どうして、木村さんは、人から嫌われることをするのかと。

 おやおや、そんなことはしていないと言うと。気づかないだけだと言われた。

 つまり、私は、心と口が一直線であり、そのままである。小手先で言葉が出ない。

 好きだと言ったら好きであり、嫌いであると言ったら嫌いなのである。そうして言えば、それで終わる。嫌いな人とでも、酒を飲む。

 性格である。

 一朝一夕に出来たものではない。

 変容させることは出来るが、そのための辛抱は出来ない。ゆえに、今までも、これからも、私は人に言われ続ける。と、言われ続けたいと思う。

 言われるうちが花である。

 

 しかし、私は有名でもなく、いつまでも、この調子でいい。

 死ぬまで、アマチュアを演じられれば、幸いである。

 人には、それぞれの手順というものがある。その手順を巡って人は争う。だから時間を経れば、皆、それを知り、和解が出来る。それを急いではならない。

 ご飯とみそ汁を交互に食べる人もそれば、ご飯だけを先に食べて、みそ汁を後に飲む人もいる。人の違いは、単にそれだけのこと。

 人に大差は無い。有る訳が無い。皆、大便、小便、目くそ、耳糞、鼻糞、へその糞と、くそだまりの人間である。何の差も無い。糞のために生きていると思ってもよい。その程度である。

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