時事放弾18 2006/9/7

木村天山

 猫もシャクシも、アホも馬鹿も、靖国神社のことを論じているので、アホな私も言う。

 小泉さんに関しては、もう言うことなしである。言っても詮無いこと。

 昭和天皇のことである。

 天皇は、戦争責任を感じていたかということである。

 当然、感じていた。

 マッカーサーと会談した時、私は、どうなってもいい、国民を助けて欲しいと言う。

 また、伊勢神宮に戦勝祈願をしたが、後に、神宮は軍の神にあらず、平和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないかと言う。

 

 そこで、今回の天皇のメモである。A級戦犯が合祀されてから、靖国に参拝しない、それが私の心だと言う。

 それをもって、天皇のために死んだ多くの戦没者、そして天皇の戦争責任を徹底して、かばったA級戦犯と判定された人に対する思いは、どうだったのかという人もいる。天皇のその心に怒りを感じるという人もいる。

 

 参拝しないのが、私の心である。が、即座にA級戦犯合祀に対するものであるか否かである。

 ここで今一度、神道思想を考えなければいけない。それを考えないと、天皇の心の謎は解けない。また、自分の戦争責任について云々することが昭和天皇に出来たかということである。

 天皇が戦争責任を公に認めるということになれば、どうなっていただろうか。個人的に、必要に応じて、それに触れることはあっても、世界内外に、戦争責任を認めた場合、A級戦犯の人々の努力は空しく、そして日本のために亡くなった多くの戦没者に対して、どうであるのか。その彼らの死を否定することになる。

 天皇は国体である。戦時中も天皇は、日本の象徴であった。

 天皇は神にてましませばとはの神とは、人間に対する最高の尊称である。

 カミ、とは、上、守も、頭もカミと呼んだ。

 日本人のカミの思想は、役職の、そしてそれを尊称する、カミなのである。その最高位が、神と言われる。これが伝統である神道である。

 一神教で言うところの、神なるものとは、全く違う。

 社会、共産主義者が、天皇の戦争責任を云々するが、彼らは、共産主義により、ナチスのユダヤ人大量殺害より、甚だしく人を殺し続けているが、それについては、何も触れない、反省しない。それが、こと天皇については、よく言うものである。

 いずれ、私は、共産主義が、どれ程の殺戮を繰り返したのか、書くことにする。

 天皇が、戦争責任を口にした途端に、それでは、あの戦争により、命を失った者は、どうして救われるのかと、多くの人は問うであろう。

 あの戦争は、日本の自衛であり、追い詰められたがゆえの、暴挙である。そしてまた、罠に嵌まったと言える。

 日本を叩き潰したい勢力である。その良い例が、国連である。あれは、日本を敵とする国々の仲良しグループの発想で成ったものである。それが、今では、日本は、膨大なお金を国連に支払っている。そして、常任理事国入りを希望すると、中国共産党からのもう反発である。

 私は、国連の常任理事国など入らなくてもいいと思っている。

 一度、国連のユニセフなどの耳触りの良い言葉を吐く、資金の流れを追ってみるとよい。どんなことになっているのか。

 

 あの野蛮な西洋人でさえ、祈りが日常的になっているという事実がある。今の日本の国民に比べれば、その差は大きい。しかし、天皇とは、祈りが日常化している存在である。天皇とは、日本の祈りの象徴である。それを、皆、忘れた。天皇が何を考えて行動しているのかを鑑みれば、自ずと理解出来るというもの。しかし、知らないことは、無いことであり、知らないことは、考えられない、今の日本人に、天皇の戦争責任を論じる、何物の根拠も無い。

 天皇の存在意義を知らずに議論しても、詮無いことである。

 そして、あの当時の内閣で、天皇が戦争反対を唱えても、それが成されたか。否である。天皇は、皆の決定したことを、善しとする、それが天皇の役割である。

 聖断を下されたのではない。内閣の決定を了承せざえるを得なかったのである。

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とは、終戦の玉音放送の言葉ではない。天皇は、戦争そのものを、そのように考えていたのである。

 あの大戦は、日露、日清戦争と違うということを、天皇は知っていた。我が身が国体であるならば、無意識のうちに霊感を持つ。当然である。

 誰が負け戦をしようとするか。まして国民を犠牲にするのである。

 天皇が神でなければ、敗戦の際に、一家で亡命していたはずである。

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